著者の志賀信夫さんとは同じ1982年生まれであり、十年来、公私ともに親しい友人である。さらに言えば、貧困に抗して共に闘いを続ける同志であり、彼自身は学生時代に貧困によって父親を亡くした当事者でもある。本論は書評という様式ではなく、彼との交流や貧困と向き合う実践のなかで感じることを本書と照らして率直にお伝えしたい。
まず貧困について考えることは貧困ではない生活について考え、ひいては自分や他者の生活、社会と向き合うことだ、と彼は述べる。そして、現在の生活に不自由はないですか、生活費は足りていますか、あるいは本当に自由で豊かですか、と語りかけている。
現代は物価高の影響から生活困窮、不自由を強いられる市民があまりにも多い。市民間で差別や分断、軋轢が生じ、闇バイトや売春が社会問題化している。困窮者に限らず、一般的に生活不安、将来不安が広がる誰もが貧困当事者の時代だ。
私自身は首都圏を中心に20年ほど、生活困窮者支援に奔走する社会福祉士、ソーシャルワーカーでもある。昨年は生活相談が相次ぎ、食料配布なども緊急実施した。食糧にさえ事欠く「絶対的貧困」が広がっている。つまり本書でも指摘されている貧困は決して改善されることなく、身近に厳然と存在する。
2000年代後半のリーマンショック、日比谷公園年越し派遣村では失業、低賃金・不安定労働が可視化され、反貧困運動が隆盛を迎えた。一時的であれ、貧困に連帯と抵抗で立ち向かった時期でもある。具体的に生活保護制度利用促進、生活困窮者自立支援法成立など、連帯と抵抗によって社会改良が進んだ。
ただ、当時から反貧困運動に携わっていた私たちには、本書のような貧困理論が共有されておらず、運動方針もあやふやなまま対症療法を繰り返すことに終始した。貧困とは何か、と考察を深めることは、どのような社会を構築するのか、に繋がる。しかし、それが不十分なため、何を求めて社会改良をすべきか、社会活動家たちも混乱や「敗北主義」に陥り、未だ方向性を見出せていない。
社会活動家だけでなく、貧困に苦しむ人たちに接し、本人の生活課題から社会変革を促す福祉専門職も同様に揺れている。例えば、『漂流するソーシャルワーカー』(旬報社)、『いま、ソーシャルワークに問う』(生活書院)、『ソーシャルワーカーのミライ』(生活書院)など、近著では貧困や生活課題とどう対峙すればよいのか、という原初的な問いを通じて理論的な混乱が見られる。いずれの書籍も著者らによる危機的状況、混沌、混乱、動揺という言葉が並び、課題共有には役立つが、具体的で理論的な示唆に富むものとは言い難い。マルクス経済学者らが打ち立てた社会福祉学においても、マルクス研究、資本論研究が後退した現在、本書はそれら「忘れられた議論」へ一定の「解」や方向性を示すものとなるだろう。ゆえに福祉専門職は本書を活用して、その存在意義を再確認されたい。
貧困とは資本主義成立以降、あの手この手を駆使して先人たちが克服しようと試み、失敗や敗北を重ねてきた強敵である。しかしながら、あくまで「貧困は自然現象ではない。貧困は人工的に創出された現象であり、人間の手で解決すべき問題である。貧困を生産する社会構造を変えるための連帯と抵抗が必要である。」と理論的な理解を進め、個人の言動が変わることで社会改良が進む。そして、私も著者と同様に「貧困のない世界を、生きているうちに自分の目で見たい」と思っている。
本書が今現在も貧困や不自由に苦しむ当事者だけでなく、何をすべきなのか困惑する福祉専門職、本当の豊かさを求めて悩む私たちに突き刺さり、連帯と抵抗の一助になることを切に願っている。
(ふじた・たかのり 社会活動家/社会福祉士)
ちくま新書
『貧困とは何か―「健康で文化的な最低限度の生活」という難問』志賀信夫著
定価968円(10%税込)