「現地」と「現物」が大切だと私は思っている。今年は戦後80年の年だが、戦争体験者は年々減少、近い将来、戦争の記憶を語れる人はいなくなるだろう。その時、エモーショナルなレベルで文献や映像資料以上の役割を果たすのは現物だ。記憶、特に負の記憶を伝えるのにブツは欠かせないのである。
重要なのはまず、当時の現物資料を収集、展示した資料館である。広島平和記念資料館や長崎原爆資料館が代表的な例である。同じくらい重要なのが往時の遺構で、代表例は広島の原爆ドームだ。ちなみに、長崎にこの種の象徴的な遺構は残っていない。被爆した浦上天主堂が1958年に解体されたためである。もし残っていれば確実に世界遺産に登録されていただろうに。
戦争関連施設だけではない。たとえば現在の日本には、四大公害病の記録と記憶を伝える資料館も存在する。熊本県の水俣市立水俣病資料館、富山県の県立イタイイタイ病資料館、三重県の四日市公害と環境未来館、新潟県の県立環境と人間のふれあい館(新潟水俣病資料館)。いずれも貴重な公立の資料館だ。
一方で、公害関連の遺構は残りにくい。最近では2023年、老朽化を理由に水俣病の原因企業チッソが工業廃水を流し続けた「百間排水口の樋門」の撤去計画が浮上。撤去反対運動が起きた。県が間に入り、新調した樋門を設置する案で一応決着したものの、遺構の保存が簡単ではないことをこの例は示している。
さて、直近の「負の記憶」といえば、2011年3月11日の東日本大震災および福島第一原発の事故(3・11)だろう。現在の青森、岩手、宮城、福島各県は震災関連施設が続々と開設。「3・11伝承ロード推進機構」に登録された伝承施設は優に300超。展示室などのある大きな施設だけでも約70に及ぶ。いったいどんな施設なのだろう。そして負の遺産を後世に残す意味とは?
辛い体験は早く忘れたい
大内悟史『震災アーカイブを訪ねる』は、3・11の記憶を伝える伝承施設を自ら訪ね歩いた中高生向けのガイドブックだ。紹介されているのは、福島県、宮城県、岩手県の計一二施設プラス周辺の関連施設。20年に開館した「東日本大震災・原子力災害伝承館」(福島県双葉町)の紹介はこんな感じだ。
〈2階の展示は事故以前、事故当時、事故以降という時系列で何が起きたかをたどります。/展示で注目したいポイントは三つ。一つは、町内の路上に掲げられた「原子力 明るい未来のエネルギー」という看板です〉〈もう一つは、事故当時の経験を語る当時者の声に耳を傾けることができる「語り部」コーナーです〉。さらにいわく〈第三に、原発事故に対する東京電力の責任について触れたパネルです。展示は「安全神話の崩壊〜対策を怠った人災」と題して東京電力や国の責任に言及しています〉。
この施設に私は訪れたことがある。その時の印象でいうと、右の紹介は好意的すぎないか、と思わないではない。町が原発を誘致した背景も、東電や国の責任についても中途半端で、体よくゴマ化された感が否めない。とはいえ著者が〈東京電力や国の責任は重いけれど、東電や国だけの責任なのか。では、誰にどのくらい責任があるのか〉と問うているように、これが「考えさせる施設」なのは間違いない。批評の前に学習を、が本書の美点なのだ。
博物館・資料館的アーカイブ施設に比べ、震災遺構の保存にはさまざまな困難が伴う。大内はさりげなく重要な指摘をしている。〈岩手や宮城・福島の震災アーカイブ施設や震災遺構の多くは、ぼくが見たところ、多くの命が助かった成功体験を伝える施設がほとんどです。多くの命が失われた悲劇を詳しく検証し、伝える施設は数少ない印象があります〉。
人は成功体験は語りたいが、辛い体験は忘れたいのだ。
実際、悲劇の現場が更地にされた例もある。岩手県の大槌町役場旧庁舎だ。津波と津波火災に襲われた大槌町の被害は大きく、死者・行方不明者は約1300人に達した。役場も例外ではなく、町長や課長級の幹部職員を含む約40人が津波で命を落とした。
その後、復旧復興の過程で旧庁舎の保存問題が浮上。15年の町長選で一部保存の方針を示した前職に対し、解体を掲げた現町長が当選。19年に旧庁舎は解体撤去された。
辛い記憶を早く消したい気持ちはわかる。しかし、なんてことをしてくれたんだ、という義憤を私は禁じ得ない。長崎の浦上天主堂ではないが、失われた遺構は二度と戻らないのである。
遺物や遺構は当事者が去った後にこそ威力を発揮する。その意味で参照すべきはやはり戦争関連施設だろう。
梯久美子『戦争ミュージアム』は各地の戦争関連施設14か所に足を運び、関係者への取材とともに展示内容を紹介したレポートである。広島と長崎の原爆資料館をはじめ、靖国神社に併設された遊就館、鹿児島県の知覧特攻平和会館など、戦争資料館の数は多く、ガイドブックも多数出版されている。が、本書がユニークなのは比較的マイナーな施設を紹介している点だ。
かつて陸軍の毒ガス製造工場があった、広島県の大久野島毒ガス資料館。特攻の訓練基地として多くの若者を死地に送った茨城県の予科練平和記念館。戦没画学生の絵を集めた長野県の無言館。人間魚雷の基地があった山口県の周南市回天記念館……。
大久野島を訪れた著者は〈私はここで、日本の戦争と毒ガスについて、自分がいかに無知だったかを思い知った〉と述べている。大久野島では1929年から45年まで毒ガスを製造していたが、この事実は長く隠されてきた。事実が明らかになったのは1983年、〈当時立教大学教授だった粟屋憲太郎氏が、ワシントンのアメリカ国立公文書館で「支那事変ニ於ケル化学戦例証集」と題された書類を発見したのがきっかけだった〉という。
製造に携わった人はのべ6700人。ここには13〜14歳の学徒1100人も含まれていた。多くが戦後も後遺症に苦しんだが、健康被害の実態が解明され、医療費支給などの救済措置がとられたのは1975年だった。〈国が毒ガス製造に携わった人たちの被害をなかなか認めようとしなかったのは、旧軍が毒ガスを大量に製造し、戦場で実際に使用していたことを公にしたくなかったからではないか〉と案内人は語っている。日本軍が戦場で毒ガス兵器を使用していたことも国は伏せていたのである。
今はウサギの島として有名な大久野島には、私も訪れたことがある。毒ガス資料館はもちろんだが、同時に目をひくのは発電所と毒ガス貯蔵庫の巨大な遺構だ。戦時中は地図にも載らない「秘密の島」だったからこそ、それらは残ったのかもしれない。
戦争関連施設は記憶を風化させたくないという住民の強い要請によって建設や保存、公開に至ったケースが少なくない。災害であれ戦争であれ、放っておけば「負の記憶」は忘れられるのだ。
負の歴史を隠蔽した世界遺産
とはいえ、ブツが残ればいいという話でもない。
その悪しき例が、2015年にユネスコ世界遺産に登録された、23の構成遺産からなる「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」(以下明治遺産と略す)だろう。
06年から「九州・山口の近代化産業遺産群」の名称で世界遺産登録を目指していたこの遺産群は、12年末に第二次安倍晋三政権が発足すると登録への動きが加速。結果的には15年、文化庁が推薦候補にしていた「長崎の教会群とキリスト教関連遺跡」(「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の名称で18年に世界遺産登録)を押しのける形で、世界遺産に登録された。
竹内康人『朝鮮人強制労働の歴史否定を問う』は〈文化庁の遺産選定に介入して、「首相案件」とされた明治産業革命遺産の登録を優先したわけです。名称は、「近代日本」から「明治日本」へと変更され、明治賛美の色彩が強まりました〉と述べている。
さらに問題なのは政府が負の歴史の隠蔽を行っていることだ。
「明治遺産」の構成遺産には日本製鉄八幡製鉄所、三菱重工業長崎造船所、三菱高島炭鉱(高島炭鉱と端島炭鉱)、三井三池炭鉱が含まれている。これらの工場や炭鉱は戦時中、朝鮮人や中国人に強制労働をさせていたことが判明している。竹内によれば、すべて合わせると、朝鮮人三万人以上、中国人は四千人、連合軍捕虜は五千人以上が動員されたという。だが政府はこの事実を認めず、負の歴史(植民地支配や強制労働)を避けるかのようにストーリーは幕末の1850年代から1910年代までで終わっている。
この隠蔽には韓国政府から抗議の声が上がっているが、ユネスコと諮問機関のイコモスも「強い遺憾の意」を表明している。
21年に共同視察を行った両機関は〈歴史全体の記述や強制労働に関する展示は不十分である、犠牲者を記憶する展示がない、強制労働の展示は不十分であり、国際的に優れた実例とするべき、関係者間の対話が必要である〉との報告書を上げた。同様のことは二四年に登録された「佐渡島の金山」(やはり強制労働があったと判明している)にも、まんま当てはまる。
明治遺産や佐渡金山の遺構は、いずれもすばらしい産業遺産である。だが、付随する歴史の解説に捏造や隠蔽が混じっていたら元も子もないのだ。多少の無理を承知でいうと、この話は「悲劇を伝える遺構は少ない」「負の記憶は忘れたい」という震災遺構の件とも、底のほうで繋がっていないだろうか。
どんな遺物も遺構も、ラベル(正しい歴史認識に基づく解説)がなければただのゴミ。後世にどんな歴史を伝えるか。アーカイブ施設を訪れる私たち一人一人にも、問われている課題である。
【この記事で紹介された本】
『震災アーカイブを訪ねる ―― 3・11 現在進行形の歴史って?』
大内悟史、ちくまQブックス、2025年、1320円(税込)
〈いま、なぜ被災地を歩くガイドブックが必要なのかと問われれば、いまようやく現地が「旅」しやすい環境になったから〉(あとがきより)。著者は福島県いわき市出身の朝日新聞記者。10代の読者に向けた震災関連施設と震災遺構のガイドブック。3・11の概要や県ごとの被害状況も記した親切設計。写真がもう少し欲しいところだが、震災を読者とともに考えるスタイルは好感度大。
『戦争ミュージアム ―― 記憶の回路をつなぐ』
梯久美子、岩波新書、2024年、1012円(税込)
〈いま改めて思うのは、場所が持つ歴史性である。過去からの声が聞こえる場所が確かにあるのだ〉(あとがきより)。著者は戦争関連の作品を数多く執筆してきたノンフィクション作家。北海道から沖縄まで、全14か所の戦争関連資料館を訪ね歩いたルポルタージュ。マイナーな施設も含まれており、著者の率直な発見や驚きとともに、常軌を逸した日本軍の暴挙が改めて浮き彫りになる。
『朝鮮人強制労働の歴史否定を問う ―― 軍艦島・佐渡・追悼碑・徴用工』
竹内康人、社会評論社、2024年、1760円(税込)
〈歴史否定の動きは第二次安倍晋三政権のなかで顕著になりました〉(はじめにより)著者は朝鮮人強制労働関係の著書を多数もつ歴史研究者。世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」を中心に、端島(軍艦島)や佐渡金山などにおける強制労働と、それを否定する近年の動きを追う。群馬で強行された朝鮮人追悼碑の撤去問題にも言及。テーマは重いが講演が元なので読みやすい。