妄想古典教室

第二回 そのエロは誰のものか
現存最古のエロティカ

もうひとつの斎宮物語

 野宮神社といえば、「源氏物語の宮」である。事実、野宮神社側もそのように銘打っているのであり、お守りにも、源氏絵を織り込んで「源氏物語旧跡」と箱書きしたものが用意されているのである。

『源氏物語』で、斎宮に選ばれるのは、六条御息所の娘である。葵祭の日、光源氏を一目みようと出かけた六条御息所は、正妻の葵の上の従者たちに辱めを受ける。その屈辱から、出産の床にある葵の上に生霊となって憑りつき、憑り殺した。我が身が生霊となってあくがれ出でた、そのことを光源氏に知られてしまった。葵の上の口を借りて光源氏に恨み言を述べていたとき、「そうおっしゃるけど、誰だかわからない。しかと名乗れ」と素知らぬフリをしながらも光源氏ははっきりと六条御息所の声であることに気づいていた。生霊となったこと、そしてそれを光源氏に知られてしまったことの恥ずかしさ、妄執の強さに悩んだ六条御息所は、娘の伊勢下向につきそって都を離れる決心をするのである。

『源氏物語』「賢木」巻で、光源氏は六条御息所に会いに野宮神社を訪ねている。野宮神社の様子は次のように描写されている。

 

ものはかなげなる小柴垣を大垣にて、板屋ども、あたりあたりいとかりそめなり。黒木の鳥居ども、さすがに神々しう見わたされて、わづらはしきけしきなるに、神官(かむづかさ)のものども、ここかしこにうちしはぶきて、おのがどちものうち言ひたるけはひなども、ほかにはさま変はりて見ゆ。(『源氏物語』「賢木」巻)

 

 野宮神社といえば、黒木の鳥居と小柴垣なのである。したがって「小柴垣草紙」というのは、野宮草紙と言っているのも同然なのである。

 はじめはよそよそしい会話をしていたものの、来し方の恋情が思い返されて、二人は共寝する。源氏の口説き文句に、六条御息所のため込んできた恨みも消えただろうが(ここら思ひ集め給へるつらさも消えぬべし)、かえって別れる決心が鈍ってしまう(やうやういまはと思ひ離れ給へるに、さればよと、中々心動きておぼし乱る)。夜明けが近づいてくる。男の帰るときが来た。別れを惜しむようにして、光源氏は六条御息所の手をじっととらえている。かつてはいつもこんな風だったのだ(出でがてに、御手をとらへてやすらひ給へる、いみじうなつかし)。

 美しい一夜の逢瀬だが、のちに、この場面が能の演目「野宮」になると、六条御息所は光源氏との逢瀬のあった九月七日に網代車に乗って現れ、葵祭の屈辱を胸に妄執を語る霊となっている。

 野宮神社とは、光源氏と六条御息所の一夜限りの最後の逢瀬の場であると同時に、御息所の狂わんばかりの愛欲の渦巻く場としてイメージされていたのである。

 さて、それで「小柴垣草紙」はいったいどのような絵巻なのかと言えば、斎宮が袴を脱ぎ捨てて、小袖一枚を引きかけて、下半身を露出したまま、縁先に座り、縁の下で寝ていた武士の顔を足でふみつけて起こし、見上げると、胸も陰部も丸見えというはじまりである。

夜更くるほど、小柴のもとに臥したるところへ、いかなる神のいさめを逃れ出で給へるにか、高欄のはづれより御足をさしおろして、にくからず御覧じつる面(つら)をふませ給へたるに、あきれて見あげたれば、うつくしき女房の御小袖姿にて、御髪ゆらゆらとこぼれかかりておはします、御小袖のひきあわせしどけなきに、しろくうつくしき所、また黒くとあるところ、月の影に見いだしたる心まどひ、いはむかたなし。(「小柴垣草紙」)

 

 小柴垣のそばに眠る男を女の方が誘ったのは明らかである。なんといっても、斎宮は皇女なのであるし、滝口の武士とでは、女の方の身分が上なのである。したがって男は女のために奉仕する役割を負わざるを得ない。続く第二段の詞書に「御足にたぐりつくままに、をしはだけたてまつりて、舌をさし入れて舐(ねぶ)りまわすに、つびはものの心なかりければ、かしらもきらはず、水はじきのやうなるものをはかせかけさせ給ひけり」とあって、男は相変わらず地面に這いつくばったまま、縁先に腰かける女の陰部を舐め上げているのである。構図としては、女が観者に股間を開いていて、男が後ろ姿で描かれているので、明らかに女の陰部を見せるための絵ではある。やがて、男が「七寸の切杭(きりぐい)」を「さしあてて、上さまへあららかにやりわたす」ことになるのだが、春画展に出品された鎌倉時代の本では、男が烏帽子一つの全裸であるのに対し、女は相変わらず小袖を引きかけたままであることに注意したい(ここに図版を載せるわけにはいかないので、ぜひとも「春画展」の図録を参照されたい)。

 例によって胸の表現はまったくといっていいほど見分けられない。これが、いわゆる男性観者に向けたポルノグラフィならば、女こそまず全裸にするところだろう。事実、江戸の写本では、さっさと男女ともに全裸になってしまうものもある。

 女の妄執の地、野宮神社を舞台とする、この好色物語は、詞書はもちろん画の上でも徹底して女のための物語だった。ところで斎宮済子女王と滝口武士平致光の密通を書きとどめた『十訓抄』には、別に色好みの男が、それを上回る好色な女にすっかりたじたじとなる説話も載せているのである。『十訓抄』上の「一ノ四十三」話に収められた色好み土佐判官代道清の物語は、彼を「源氏、狭衣たてぬきにおぼえ、歌よみ連歌を好みて、花の下、月の前、すきありきけり」として登場させる。希代の光源氏か狭衣大将かという色好みなのだが、しっとりとした恋物語にはならない。

 主人への奉仕の合間をぬって、男の元へやってきた女は、どかどかと歩みよってきて「どこなの」(いづら)と「はなやかにほがらか」な声を出して、なんだか風情がない。その上、「主人が風邪をひいて、局に戻る暇もなかったけれど、こんなふうにたびたび追い返すのも悪いと思って来たのよ」と言いながら、さっさと袴を脱いでしまうのであった。男が唖然としていると、女は袴をおしやって、「さあ」(すは)と股を広げてみせた(隠れなくうちあけたり)。道清は、おどおどしながら装束を脱ぎはしたものの、下半身がどうにもその気にならぬままに終わってしまった。女は「あら、見苦しいこと」(あな、むつかしや)と言って、袴を着けてさっさと奥へ入ってしまった。

 自ら袴の腰ひもを解き、脱ぎ捨てて、股を開く女のイメージは、「小柴垣草紙」の斎宮によく似ている。しかも、この女、「宮腹の女房」ということになっており、皇女の娘なのである。

 勃たない話で笑える男はめったにいない。この説話も笑いものになっているのはどう考えても道清のほうである。すると女たちのこんなささめき声が聞こえてくる気がするのである。

 ていうかサァ、光源氏だかなんだか知らないけど、モテ男のつもりみたいだけどサァ、まどろっこしいのよ。ロマンチック?てか、たんにウザイ。