人はアンドロイドになるために

最終回 時を流す(4)

 司馬遷やマキャベリをはじめ、左遷され、閑職に置かれた人間によって著されてきた歴史書や名著は少なくない。ヒマになったからこそ、優秀な人間が、まとまった時間を使って書物というかたちで知恵を残すことができた。そこには志なかばで第一線から退かねばならなくなった書き手の「これからの世でなされるべきこと」「やりたかったが、できなかったこと」「後世の人間に託した想い」が詰まっている。

 私と組むようになったあとの姉にも、時間はたっぷりとあった。思えば片山にも。

 

 遺されたテキストを読んで、数日かけて考えた。

 姉は、何かを発明したがっていた。

 ロボット時代にふさわしい思想や宗教のありようを。ロボットがなければ生まれえなかった、人間の精神活動を。人工生命で神のような存在をつくるというプロジェクトも、それをめざしたものだったのだろう。

 そしてそこにいずれ、姉と姉の娘の遺伝情報を取り込んだ、あのアンドロイドを据えよう。

 私が取り組んできた「タブーとは何か?」の探求と、姉が取り組んできた「現代において聖性をいかにつくりうるか?」の探求は、表裏である。それならば、私にもやりようがある。引き受けてみても、いいような気がする。

 それは正直に言えば、「姉の志を継ぎたい」という気持ちではなかった。

 しばらく次にすべきことが見つからなかった私に、久々に取り組みたいと思えるものが現れた、という感覚だ。思えば「タブーを問いたい」と思い続けてきたはずなのに、姉が“覚醒”してからの私は戸惑い、日和っていた。

 あらたな作品としての、団体運営。考えれば考えるほど、それは私向きのことのように思われた。

 私に望まれていること、私がしてみたいことは、この団体をもっと先に進めることだ。勝手に決めていいのだろうかと思ったが、姉は「この団体は姉妹のものだ。お前の決定は私の決定である。勝手に決めろ」と私宛ての遺書に記していた。

 幸いにして運営はほとんど自動化されていて、私が直接手を下さなくと既存事業の大半はまわるしくみができていた。

 新しい何かを始めよう。

 そのためには準備が、考える時間が必要だ。

 

 私は世界各地にある支部を飛び回り、そして今の思想、政治、宗教におけるロボット、アンドロイド利用について改めてこの目でリサーチをしはじめた。

 そして、ほとんどのスタッフがロボット化されたあるショッピングモールを視察中、上からアンドロイドが振ってきた。

 直撃された私は、ほぼ全身が不随となり、生身の身体では動けなくなった。

 香澄、姉、私。みなが揃って、動けない状態になった。

 モールでの事故は、片山の手によるものではない。

 彼の犯行は、それよりずっと前の出来事である。

 こちらの事件こそ、人間至上主義者によって引きおこされたものだった。

 彼は手記のなかで、自分の事件と私の事件を意図的にか錯乱のせいか、混同していた。だからこそ彼はおもしろい、とは思う。私には理解できない思考回路を持った、特異な人間として興味深い。 

 アンドロイドに関係する代表的な犯罪者をカタログ的にアンドロイド化する、という計画は、そもそも姉が遺していたものだ。

 実行せずじまいだったそのプランを、私が引き継いだ。

 姉はおそらくは、社会のレールから外れる人間に関心があった。

 姉自身は、両親が亡くなるまで、まったくそうではなかったから。片山の兄や両親のような順風満帆な歩みを、片山が事件を起こす年齢ごろまではしてきたから。私は片山のような人間に正直に言えばさほど興味はない。だが、あるときとつぜん思想を発露するようになった姉には興味がある。姉を知るために、片山たちを知りたいと思う。

 事故に遭ってみて感じることもある。片山は偉大なる先人ではあるものの、被害者意識が強すぎた。

 未来は自分の意志で、手で、作らなければならない。

 本物の技術者やクリエイターならば、どんな環境にいても、技術で世の中を変える方法を考え、実現しようとする。

 この世に奇跡はない。

 だから恩寵など待たず、行動しなければならない。巻き込まれ、被害者ぶって生きていても、何も手に入れられない。個人として揺るがない信念を持つか、さもなくば信仰に拠ることで、いずれにしても貫かなければ。

 もちろん動けなくなってしまってしばらくは、私も世界から取り残されたような気分だった。道半ばなのに、どうして? と運命を恨みもした。

 しかし、今の時代ならば、BMIを使えば脊髄が損傷していてもロボットは遠隔操作できる。

 すばらしかった。

 ロボットを通じて、どこまででもいってみたい、という強い願いが、初めてめばえた。それまで何度も遠隔操作でロボットに入っていたけれど、身体が動かせるありがたみとおもしろさをこれほど感じたのは、生まれもった身体が不自由になってからのことだった。

 ここにいる私は動けないが、ロボットは動ける。

 世界の果てまでロボットを派遣し、創作を、パフォーマンスをしよう。

 いつか、からだが弱く、十分な思考ができない香澄でも使えるようなものをつくろう。

 姉の手記をヒントに、私はそう決意する。

 そして地球の隅々にロボットを、アンドロイドを送り込んだ。

 グリーンランドの氷の土地、マレーシア海上の高床式住居、ローマのコロッセオ、アイダホのキャッスルピーク山、太平洋の真ん中に楽園のように広がる南ライン諸島、イルカが群生する中米ホンジュラス沖ロアタン島、テューリンゲンの森、沖縄トラフの深海、幾何学模様を見せるブルックリンのプロスペクト公園、蝶の大群が舞い降りる南米エグアス川の岸辺、象の密猟者が跋扈するザクーマ国立公園、ジャングルにそびえる東南アジア最高峰カカボラジ、カメレオンの宝庫マダガスカル島、アフガニスタン東部の仏教遺跡メス・アイナク、八百本の楓がある新宿御苑、世界最大の溶岩湖があるニイラゴンゴ火山、アフリカで最も活発なニアムラギラ火山……無数の場所に私たちのロボットは入り込んだ。

 このプロジェクトを通じて、やはりロボット側にセンサがあるだけではなく、環境にセンサを埋め込み、環境自体を知能化するほうが、よりゆたかでおもしろいことができることを確信した。地球上のあらゆる場所にセンサを埋め込み、ネットワーク化する――地球全体をロボット化する。

 環境にこそ、生命性をつくりだすものがある。

 人間だって環境を変えれば、人が変わる。

 人間もロボット同様に、どこまでが環境で、どこまでが個体なのかはわからない。

 どこまでが自律でどこまでが環境からの影響なのかがわからないロボット/センサのネットワークを地球全体に張り巡らせ、学習させたロボットや私が操る半自律のアンドロイドを動かしてみよう。

 自然環境の上にロボットのための環境を上書きしきったとき、ロボットやアンドロイドを使った芸術の幅は圧倒的に広がる。

 それ以前に、ロボットやセンサがあるところには遠隔操作で「入り込む」ことができる。

 それは「私」を世界のすみずみまで拡張することにほかならなかった。

 姉を、香澄を拡張することでもあった。

 私たちはすでに、アンドロイドのからだをとりかえることができる。

 センサが付いているなら、炊飯器にだってなれる。炊飯器の気持ちもわかる。ひとつの身体に、手を二十本つけてみることもできる。逆にすべての運動機能、知覚機能を落とすこともできる。

 私は私でありながら、私でないものになれる。

 人類が生み出してきた技術は、人間の能力や身体を拡張し、「私の範囲」を広げてきた。

「私の範囲」は、どのように規定されるのか。

 裸の私の体は私?

 では、靴や服は私?

 自分が身につけ、自分の思い通りになるものは私の一部になり、私の身体を拡張していく。それには道具も含まれる。大工にとって金づちは身体の一部。車のような機械も身体の一部。技術の発展は、人間個人ができることを格段に広げ、「私の範囲」を拡張してきた。

 だからこそ、テクノロジーをもっと進めなければ。

 無限の拡張。

 かつて西洋占星術では、月の満ち欠けが潮の満ち引きと関連するように、天体(大宇宙)の運動と地球上の人間たち(小宇宙)の運命が呼応する、と説かれた。宇宙が誕生時点からずっと拡張を続けているのであれば、人間の意識もまた、宇宙の速度に合わせて拡張されねばならない。

 私は地球だけでなく、宇宙全体を使ったアートをつくりたいと思うようになった。

 アートとは、そもそも異次元の体験をもたらす空間である。規模を極限まで大きくすれば、強制的に多くの人間を巻き込める。大きい物体、広い環境……それを究極にまで追求したアートを夢想する。

 片山たちのように商業施設で働くアンドロイドを開発・運用してきた人間たちは、アンドロイドをショーケースのなかに入れ、会話のパターンをタブレットに押し込めた。

「枠」をはめれば、アンドロイドは人間らしく見える。

 しかし私は人間の枠を外したい。

 どこまで外したら人間以外の、あるいは生物らしさを逸脱し、超えられるのか。

 人間がつくったものを超える何かに到達したい。

 そのためには機械が必要だ。

 宇宙を舞台にした芸術をつくるには、絶対にテクノロジーの力を借りねばならない。身体と精神を、宇宙の果てまで拡張してみたい。

 人間以外、人間以上の生命を人工的につくりだし、それに「入る」。

 それが、果てへと向かう。

 人の脳と脳、人の脳と「それ」の脳(人工知能)が技術を通してつながり、そこに社会が形成されれば、ほとんど感覚を介さずに、互いの人間としての存在を認め合うことができるかもしれない。

 生身の肉体の制約から解き放たれた状態において、それでもなお、生物が互いを認識し合うこと。宇宙のある場所にいる私の脳の活動と、遠く離れた他人の脳の活動が、ネットワークを介して関わることができれば、そこには社会が存在する。

「私」とは何かを探し続ける者が存在していく。

 自然や技術のすべてが融合した世界がある。

 こうしたことの実現には、テクノロジーのさらなる発達が必要だ。

 技術だけではない。ロボットやアンドロイド、人工知能についての無数の思想、独自の捉え方がもっともっと必要だ。その行く末を見たい。

 私は複数のアンドロイドを世界各地に放ち、姉のつくった団体以外にもいくつもの組織を束ねて“種まき”を始めた。

関連書籍

こちらあみ子

浩, 石黒 ,一史, 飯田

人はアンドロイドになるために (単行本)

筑摩書房

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