生身の如来に会うこと
「当麻曼荼羅縁起絵巻」は徹頭徹尾、女の物語なのである。極楽往生を遂げた主人公が女性であり、それを助けるために顕れた阿弥陀の化身も尼であり、曼荼羅を織り出した観音も女房姿の女性であった。阿弥陀が男性であるのはもちろん、観音菩薩だって男性なのであるから、登場人物をすべて女性で構成し、女性の極楽往生を語るこの物語は、女性の読者のための救済の書であった。それも誰ともしれない女性の往生を語っているのだから、宮廷社会の一介の女房たちに強く訴える物語であったにちがいない。この絵巻の制作の経緯に、仁治三年(1242)から寛元元年(1243)に行われた、当麻寺曼荼羅をおさめている厨子と須弥壇の修理があったのではないかと目されている。修理のための資金集めのために絵巻がつくられたとするならば、有力な家の女性たちをターゲットとして、曼荼羅が女人往生にとっていかに大切なものかを訴える物語であったということになるだろう。
『法華経』にいわく、極楽には男しか行けない。したがって女は「変成男子(へんじょうなんし)」といって、男性の肉体に変じてはじめて極楽に入ることができるのである。要するに女のままでは極楽往生できないというのは、結局のところ、女は往生できないということなのであって、女の信心を徹底的に萎えさせる教義である。だいたい『古事記』『日本書紀』の天照大神にしろ、土着の信仰には女性が神として堂々と君臨していたのである。ところが宗教として組織化されるや、神道も仏教も男性中心に女性を排除するかたちで展開することになる。
キリスト教においてもそれは同様で、魔女狩りなどは女の行う民間信仰を殲滅するための政策だった。ところが、この男性中心に固められた宗教の秩序を一点突破する方法がある。この世で神的なものの顕現を目撃すればよいのである。
キリスト教の例でいえば、例えば、パリのお土産品として人気の奇跡のメダイユ教会のマリア像の象られたメダルは、カトリーヌ・ラブレ(1806-1876)という修道女が礼拝堂に顕れたマリアの姿を写したものである。カトリーヌは三度にわたるマリア出現に立ち会っているのである。メダルとして製作・販売されるのはカトリーヌの死後、1932年のことだが、カトリーヌは1933年に列福している。そのとき、1876年に没してからすでに57年がたっていたのに、彼女の遺体はまったく腐敗していなかったという。死体が腐らないというのは、日本の仏教にも共通する聖なる者のしるしである。その後、1947年には聖人として認められ、聖カトリーヌとなった。
あるいはキリスト教信者に名高い巡礼地となっているルルドの奇跡は、ベルナデッタ・スビルー(1844-1879)という少女がマリア出現に遭遇したことにはじまる。1858年、ベルナデッタの前にマリアが出現する。いま病を治癒する力を持つとされる聖水、ルルドの泉は出現したマリアの指示にしたがってベルナデッタが掘った大地から湧いたのである。この奇跡はベルナデッタの生前から世に広く知られることとなり、彼女の写真が多く残された。ベルナデッタははじめて写真による肖像を残した聖人なのである[fig.10]。ベルナデッタが福者として認められたのが1925年、1933年には聖人に列せられる。そのたびにベルナデッタの遺体が調査されたが、少しも腐敗していなかったという。ベルナデッタの場合も、遺体が損傷していないことを以て聖性が確認されたのである。
こうして一介の女性が聖人となった例には、マリアの顕現を目撃することがあった。この世に顕れたマリアを見て、マリアのことばを授かること、これが女性にして聖人となる条件であった。
翻って、「当麻曼荼羅縁起絵巻」の物語をみると、主人公は、この世で阿弥陀如来に出会い、仏陀となる資格を得たのである。なんとキリスト教の女性の聖人の話に似ていることだろう。
しかし、「当麻曼荼羅縁起絵巻」にしこまれた物語は、ただ女人往生を描いたというにとどまらない。『法華経』が語る女人往生の根幹に横たわる女の難問を突破する物語を創出しているのである。すなわち、女が女のままに成仏するということを絵の上に語ってしまっているのである。
絵巻の語る物語では、ある日、化尼がやってきて、そして去り際に自分が阿弥陀如来なのだと告げて去って行くのであった。同じようにどこからともなくやってきた化女のほうは、やってきたときと同じ女房姿で五色の雲に乗って去っていった。けれども化尼のほうは、空高く飛び上がったかと思うと、中空で金色の阿弥陀如来に変じたことが描かれていた[fig.7、fig8]。
話の筋としては、阿弥陀如来が尼に化けてこの世に現れたわけだが、絵の表現にはその過程は描かれない。代わりに、尼が阿弥陀如来に変じたことのみが描かれるわけだが、その展開そのものは、尼である女がそっくりそのままのかたちで阿弥陀如来になったものとして表現されているのである。つまりここでは仏陀になるのに、男子に変じるという変成男子の過程が描かれないわけである。
それに続いて語られる主人公の往生は、同じく天界へと昇るものとして直前の絵とパラレルな構造をとる。すると主人公もまた、女として阿弥陀仏に迎え入れられて、女性のまま中空で仏陀となることが期待されるのである。なんとならば、彼女は、生身の如来をこの世で目撃した聖人なのであって、その徳の高さが往生をもたらしたのだ。ならば、女であっても生身の仏を目撃することさえできれば、女の往生も可能ではないか。そんなふうに女たちの妄想をかきたてる。その女たちの願望、希望、妄想が、生身の仏に会いたいという、実に矛盾した表現には込められているのである。