■情熱ではないものを燃料にして
ためしに『まちの本屋』(田口幹人・ポプラ社)を読んでみると、そのことがよくわかるだろう。さわや書店フェザン店現店長の手による書籍である。非常に前向きで、業界内でも評判を呼んだ素晴らしい本だ。うん、これぞ情熱の塊。しかし唯一残念なのは、この本のなかに僕のことも触れられていることだ。田口店長がこの本を出版してからしばらくの間、周囲の方々から「読んだよ」と声をかけていただく機会が結構な回数あった。その言葉にたいして僕はなんと答えていたかというと、「まだ読んでないんですよー」だった。本当は読んでいたけど、そのなかに書かれた僕に対する田口評がとても照れくさかったから、読んでないふりをしてやり過ごしていた。なにせ僕は情熱に欠けるのだ。

しかしいま、〈さわや書店の原型を作った伊藤清彦元さわや書店店長を継ぐのは松本だ〉とはっきり書かれているこの本に照れている場合ではない。いままでは行動しなくてもその結果は自分に返ってくるだけだったけれど、これからは僕が行動力のなさを発揮すると、店に、ひいては会社に迷惑が掛かってしまうことになる。だから情熱というガソリンで走るようにできていない僕は、何か情熱じゃないものを燃料にして走らなくてはならない。
では何を?と考えてひらめいたのは「怒り」である。『九十歳。何がめでたい』(小学館)の佐藤愛子さんばりに、怒りを糧にこれからの日々を過ごそう。よし、では取りあえず業界の現状に怒ってみよう。
■出版〈村〉残酷物語
本屋で働く人間は本を売る最前線にいる。そう言えば聞こえはいいが、出版「流」通という文字に則って川の流れで考えてみると、最前線の意味合いはとたんに変わる。そう、昨今そこかしこで用いられるホットワード「下流」である。下流コノヤロー。
川の上流は出版社だ。上流に住む村人である出版社はいま大雨が降り続き、源流から湧き出る水の量が増え、清き水の流れを生み出していないことに困っている。水量が増えて、川に流れ出る速度が速くなった結果、ろ過装置もうまく作用せずに水質自体が下がってしまった。増えた水の量は下流に向かうにつれて勢いを増し、次から次へと流れてくる水に押されて留まることなく海へと流れて行ってしまう。この説明における「水」は本のことであり、「海」とは返品が帰る場所である。
海に流れ出た水は蒸発して、再び川の上流へと降りそそぐ。このままじゃ川が氾濫してしまうと、危機感を持ったある川の中流に住む村人たちは、水流をコントロールするためにダムをつくった。「ダム」とは卸売業者である取次の施策のことである。ダムができた川の下流に住む書店村の村人は、我が田んぼに水を引いて実りを得ようと考えているが、いかんせんキレイな水が少ないために奪い合いとなる。もう一本あるダムのない川の豊富な水量を、うらやまし気に眺めている。だが、ダムのない川の下流に住む書店村の人々は、大量の水が流れて来すぎて田んぼが水浸しになってしまいそうである。そうこうしているうちに、ダムで堰き止められた水はあふれ、上流の出版社村の人々まで困らせ始めた。
水量が多すぎるのか? ダムが悪いのか? そもそも水が悪いのか? 川幅がせまいのか? 田んぼへと至る水路が足りないのか? 米の育て方が悪いのか? コノヤローなのか?
■コギト・エルゴ・スム
そんな状況で、上流の出版社は手をこまねいて見ていてはいけない。清き流れにも魚が住むことを証明しなければ、ダムが決壊して水害が起きる。

「上流が危機だー」と騒ぎながら、先日『「本をつくる」という仕事』(稲泉連・筑摩書房)という題名の本を読んだ。
行動力と情熱に欠ける僕の仕事は商品化された本を売ることであるが、行動力のある人が本を作ってくれているから「本」を売ることができるのだなと気づかされた一冊である。
「本とは一体何なのだろう」ということを、本書を読む前の僕はあまり深く考えたことがなかった。本は本として僕の前に完成形で現れていたから、その中身に書かれていることに興味はあれど、わざわざそれらを因数分解のように分けて捉えるということを考えつきもしなかった。だがあらためて考えてみると、究極を言えば紙の束でしかない本を商品としてブラッシュアップしている人びとがいるのだ。いまここに自我が芽生えた。コギト・エルゴ・スム。漕ぐとわりと進む。
■稲泉連『「本をつくる」という仕事』を読んで
一枚一枚の紙を重ね、束にして製本し、字体を決め、活字を印刷し、内容に誤りがないかを精査し、装丁を施されることではじめて一つの商品として流通にのる。その一つ一つに情熱を傾ける人がいて、多くの読者に手にとってもらって読まれることを願っている。
例えば、字体とは開発される対象だということ。第1章では本に書いている内容を分かりやすく伝えるために、読むという行為の邪魔にならないように「秀英体」という文字を開発する際の苦労が語られる。
第2章はドイツに留学して「製本マイスター」の資格を有する青木さんの章。ここでは、本のページ数に16の倍数が多い理由と、モノとしての本の価値の再認識を促された。印刷される「文字」を、どのようにして紙に印刷するかという第3章も興味深い。昔は活字と呼ばれ一文字ずつ並べていった。いまはオフセットやDTPで印刷するらしいが、誤った個所の修正が比較的容易にできるのは活版印刷だという(当該文字を入れ替えるだけ)。加えて、小ロット部数による出版の未来の可能性が語られる。
第4章に登場する新潮社の校閲の方は、自らの知識をフル活用して著者とゲラを通じて会話し、読者により良いものを届けようと研鑚を重ねる(→webちくまにて第4章を全文公開中)。
第5章ではほんの些細な違いにこだわり、めくりやすい紙の開発に腐心する人々も登場したし、第6章に描かれる装丁によって内容のイメージを伝えようとする装丁家の気迫には、読んでいて自然と背筋が伸びた。それらすべてが職人の誇りと情熱の上に成り立っている。
僕ら本屋で働く人はそれらを受け取り、手渡す仲介者である。それら上流で込められた情熱を、アツアツのまま読者に届けなければと強く思う。よし明日から僕もアツオになるぞ、コノヤロー!
■情熱が冷めない距離感を
でも冷静な部分の僕は同時にこうも思うのだ。上流の情熱は川下へと流すうちに、いくばくか冷めてしまう。では「船に乗って」川下まで直接渡しにやってきてくれてもいいんじゃないか、と。情熱のさらなる先の努力をプロデュースしていかなければ、この業界は水害に見舞われるのだから。職人大いに結構。だが、自分のテリトリーだけに閉じこもって、自分の仕事に全力を尽くしているだけでは、もうこの業界は持たないのだ。上流にも下流にも出かけて行って積極的に情熱をもった口出しをしていかなければ、もはや革新的なものは生まれない。だから、これからはお互い船に乗って情熱が冷めない距離感で行きましょう。漕ぐとわりと進むぞ、コノヤロー……。【本文終わり】
【次ページにて、さわや書店の新店開店までの店長日記を公開中】