筑摩選書

「ミステリ」と「観光」から見えてくる大英帝国盛衰史

5月発売の筑摩選書『アガサ・クリスティーの大英帝国 名作ミステリと「観光」の時代』から「はじめに」をお送りします。 ミステリの女王・クリスティーはまた観光の女王でもあった。その生涯にわたる傑作の数々における「ミステリ」と「観光」の変容を通じて、20世紀大英帝国の変貌を読み解きます。

ポー、コナン・ドイル
 もっとも、残念ながら、クックの同時代者であるポー、そしてポーのミステリにおける最大の後継者で、ホームズ・シリーズの作者コナン・ドイルに、現在のわれわれの時代にあるような観光ミステリは見当たらない。確かにポーはアメリカにいながら、「モルグ街の殺人」に始まる探偵デュパン・シリーズ三部作の舞台を(ひょっとすると彼自身も訪れたことがなく、バルザックの小説などで読んでいただけだった)パリに置き、異国への憧憬をうたいあげた。犯人の声を外国人だったとしながら、その国名については近所の人々の証言が一致しないなど、当時のパリがもっていたであろう世界的都市としての国際的性格を表現してもいる。何しろポーの描くパリがあまりに魅力的に描かれているので、パリっ子の詩人ボードレールなどは、デュパン三部作の仏語訳さえつくっているほどだ。
 しかし、デュパンは、ポーのミステリではパリに留まっているのみで、どこにも出かけない。「夜も更けた大都会の光と闇の中に、静かな観察がもたらす無限の高揚感」(「モルグ街の殺人」)を求め、パリ市内を歩きまわるのにとどまる。花の都パリを描いているという意味で、ある種の観光的関係はありそうだが、本書で論じるアガサ・クリスティーのような、本格的観光ミステリとは違う。
 その意味では、ポーのミステリにおける後継者コナン・ドイルが書いたシャーロック・ホームズ・シリーズのほうが、旅に満ちている。
 ポーがデュパン三部作を書いて半世紀近くがたち、欧米とくに英国の世界制覇は更に顕著となり、海外に渡る機会も増えていたのだろう。そもそもホームズと一緒にロンドンのベーカー街で下宿を借り、物語の語り手でもあるジョン・ワトスン自身がアフガン戦争からの帰還兵(軍医)なのだ。
 しかし、ホームズ・シリーズに登場する海外渡航者は、ワトスンはじめ、その多くの目的は、観光ではなく、軍役や商売である。たとえば、ホームズ・シリーズの長編四部作のうち、『緋色の研究』『四つの署名』『恐怖の谷』の三作品はいずれも二部構成になっており、第一部ではホームズがロンドンなど英国を舞台として、殺人事件を解決し、犯人を逮捕する。他方、第二部は犯人が何故犯行に至ったかの動機を、インドやアメリカなどでの体験を通じて告白する手記という構成だ。
 犯人は成功を夢みて海を渡り、アメリカ大陸やインドなど海外で塗炭の苦労を舐め、ようやく成功を勝ち取った。しかし、それも束の間、友人に裏切られ、財産や恋人を奪われて、ほとんど命をなくすところまで追い詰められるというのが、共通した第二部の内容である。これらを見ると、ホームズが書かれた一九世紀後半、海外渡航とは観光よりも、一旗組の移住が多く、成功と悲惨が紙一重だったことが伺われる。
 長編と同様に、短編でも、海外で受けた恨みを晴らす筋立ては「ボスコム渓谷の惨劇」
「背中の曲がった男」に描かれ、外国の秘密結社が執拗に被害者を英国まで追ってくる話には「オレンジの種五つ」「踊る人形」「赤い輪」などがある。アフリカで患った風土病が帰国者を悩ませ(「白面の兵士」)、猛獣や毒薬が殺人の道具に使われるなど(「まだらの紐」「悪魔の足」)、まさに海外行きの危険性をドイルは読者に警告しているようだ。実際に一九世紀、海外に軍役や商売で渡ったイギリス人は多かっただろうが、そこには多くの危険が待ち構えていたのだろう。
 ところで、海外だけではなく、英国国内の田舎にも、コナン・ドイルは否定的である。列車に乗り、車窓から見える田園風景を愛でる親友ワトスンに対し、ホームズは首を振ってこう言うのだ。
《「ワトスン、経験上確信をもって言うけどね、ロンドンのどんなにいかがわしい薄汚れた裏町よりも、むしろ、のどかで美しく見える田園のほうが、はるかに恐ろしい犯罪を生み出しているんだ。(中略)
 ところが、あのぽつんぽつんと孤立した農家はどうだい。それぞれがみな、自分の畑に取り囲まれているし、住んでいるような者にしても、法律のことなんてろくに知らないような人ばかりだ。ぞっとするような悪事が密かに積み重ねられていたって不思議はないくらいだ」》(コナン・ドイル「ぶな屋敷」『シャーロック・ホームズの冒険』)
 ホームズの言葉は、都市は田園よりも優れた文明の成果であるという理性的信念に基づいている。大都市ロンドンこそが大英帝国の繁栄を築き、産業革命を成し遂げた成果であり、帰結である。対して田園は「法律のことなんてろくに知らないような人ばかり」の未開地で、都市より劣悪だ。よって、長編『バスカヴィル家の犬』はダートムア県という田舎を舞台としながら、妖気漂う沼地が描かれるのみで、美しい田園は一顧だにされない。
 逆にホームズがご機嫌なのは、事件を解決して、田舎から帰る列車の窓から、愛するロンドンの風景が見られたときである。
《「ロンドンへ向かう高架線からは、こうやって街並みの眺望を楽しめるんだね」
 私は[ホームズの言葉が]冗談に決まっていると思った。車窓の景色はみすぼらしいことこのうえなかったからだ。すると、ホームズはすぐに説明を始めた。
「ほら、灰色のスレート屋根が並んでいる中に、ところどころ大きな建物がぽつんと頭を出しているだろう? 鉛色の海に浮かぶレンガの島々のようだ」
「ただの公立小学校だよ、あれは」
「灯台だよ、君! 未来を照らす信号灯さ! いや、何百という輝ける小さな豆がぎっしり詰まった莢(さや)と呼ぶべきか。やがて莢がはじけると、そこからすばらしい英知が飛び出し、我が国をよりよい未来へと導いてくれるんだ」》(「海軍条約文書」『シャーロック・ホームズの回想』、[ ]は引用者補足)
 ホームズはみすぼらしい都会の風景の中に、「灯台」という小学校の校舎を見出す。それは人間に教育を通して、知識と理性とをあたえるものであり、無知がはびこる田舎では到底得られないものだ。よって、都会は田舎よりも希望があり、美しいとドイルは言いたいのであろう。
 では観光はどうだろうか。ロンドンに住むホームズにとって、観光とは国外でも国内でもロンドンから別の世界へと「出る」ことになってしまう。仕事なら致し方ないとしても(実際ホームズは事件解決のため、頻繁にロンドンより外の世界へ出向いている)、余暇として訪れる価値はあるのだろうか。
 ホームズ・シリーズには、トマス・クック社が実名で登場する短編がある。『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』に収められている「フラーンシス・カーファックスの失踪」だ。中年の独身女性が高価な宝石を所持したまま、ヨーロッパを一人旅の途中、スイスで消息を絶つ話である。ホームズから現地調査を依頼されたワトスンは女性の足取りをたどるため、トマス・クック社がスイスにもつローザンヌ支店に立ち寄るが、行方はわからない。女性の一人旅でも安全に確保するというのがトマス・クック社の売り文句だったが、団体ツアーやガイドなどを利用せず、汽車の切符を手配しただけなら、安全を保証しようもない。一人旅なら、クック社の団体ツアーを利用するか、個人ガイドを雇っておけばよかったものを!
 それでも女性は最後にホームズにより救われるが、短編集『シャーロック・ホームズの回想』「最後の事件」では、そのホームズ自身がスイスの観光地ライヘンバッハで宿敵モリアーティ教授に襲われる。両者は滝から落ち、以後ホームズは(「最後の事件」以前のこととして発表された『バスカヴィル家の犬』を除いて)、一〇年間読者の前から姿を消してしまうのである。
 海外に一旗組で渡ると悲惨な目にあい、観光で行っても行方不明か、ホームズ自身のように襲われる。国内の田園もロンドンと比べれば無知な人々が住む犯罪の温床とすれば、観光は要注意だ。ロンドンで穏やかに暮らし、クリスマス用に買った鵞鳥の行方不明や、赤毛に限った人の募集といった奇妙な事件に出くわしていた方が、どうやら安全だ。ミステリを今日の隆盛に導いたのはコナン・ドイルであり、彼の書いたシャーロック・ホームズだが、こと観光に関する限り、おそらく一九世紀末当時の事情もあって、その安全性は確保されていないようである。

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