石山寺の如意輪観音
滋賀県、琵琶湖の南に位置する石山寺は、京都からそんなに遠くもないとはいえ、徒歩でいくにはちょっとした旅だ。それなのに平安時代の宮廷の女性たちは、いそいそと石山寺に足を運んだのである。奈良の長谷寺とならんで、石山寺は女性が物詣でする寺として確固たる地位を築いていた。
平安時代の貴族たちは、阿弥陀信仰に一辺倒で死後の極楽往生ばかりを願っていたわけではなかった。現世で生きているあいだの、たった今の悩みを解決してくれる御利益を求める観音信仰も同時にもっていたのである。
『枕草子』(1000)には、「仏は、如意輪、千手、すべて六観音。薬師仏、釈迦仏、弥勒、地蔵、文殊、不動尊、普賢」とあって、如意輪観音、千手観音、聖観音、馬頭観音、十一面観音、准胝観音をまとめて「六観音」と呼ぶ信仰があった。『枕草子』が筆頭にあげている如意輪観音は石山寺の本尊である。『枕草子』は、「寺は、壺坂、笠置、法輪。霊山は釈迦仏のすみかなるがあはれなるなり。石山、粉河、志賀」と列挙して、石山寺を数え上げている。『枕草子』のこの二つの章段を総合すると石山寺の如意輪観音が浮かび上がってくる。
石山寺の本尊は秘仏であり、現在も33年に一度の御開扉のときにしか拝観できない[fig.3]。如意輪観音らしい六臂像ではなく、二臂の像で、右手に宝珠をのせた蓮華を持ち、左手を下へと垂らした左足の膝上に手のひらを上向きにのせている。右足を組んで台座にのせ、左足を下に降ろしたかたちは、半跏思惟像の足に似ていなくもない。本尊は、一度火災で焼けていて現在の像は草創時のものではない。清水紀枝によれば、もともとの像は右手をてのひらをこちらに向けて胸元でかざす施無畏印、左手をてのひらを上にして膝上にのせる与願印に結んだ姿であったという。新しく造られた現存像は、右手の蓮華に如意宝珠をのせており、もとあった像よりは如意輪観音らしい表現をとっていることがわかる。したがって、現存像が造られたときには、すでに石山寺の観音は如意輪観音なのだということが定着した後だったことは明らかである。ただし観心寺像も石山寺像も秘仏なのだから、おいそれと見られたわけでもなく、どんな姿をしているかはそれほど問題ではなかったのかもしれない。
石山寺の施無畏与願の二臂像が如意輪観音であると言われるようになると、芋づる式に、似たような姿の東大寺の大仏左手側に置かれた像や、龍蓋寺(岡寺)の本尊も如意輪観音だということになっていったのだという。
もともとあった施無畏与願の印相をもつ二臂像が如意輪観音と呼ばれるようになった経緯ははっきりわからないが、如意輪観音であるとぜひともいいたかったというある種の強引さがあるのは中宮寺像に同様である。中宮寺の再興のために、信如が貴族女性に資金援助を求めたに違いないことを考えると、宮廷の女たちに強い如意輪観音信仰があったか、あるいは如意輪観音こそが女を救う女のための観音だというプロモーションをかけたか、いずれにしろ如意輪観音が本尊であるというのは女性におおいにアピールする要素であった可能性がある。『枕草子』が如意輪観音、石山寺を列挙しただけでなく、『蜻蛉日記』『更級日記』には作者が石山寺参詣したことを記しているし、歴史物語の『栄花物語』に女院、藤原詮子の石山詣でが書かれている。平安宮廷の女たちは続々と石山に詣でたことが文学作品に記されているのである。ただしこれらの女たちの書き物には、石山寺の本尊が如意輪観音だとは書いていない。本尊が何であるかなどはおかまいなしだったのか、石山寺といったら如意輪に決まっているからわざわざ書かなかったのかはわからない。
石山寺の本尊が如意輪観音だということは、源為憲が著わした『三宝絵』(984)にあるのが最も古い記録とされる。東大寺の千花会について説く項に次のようにある。
東大寺の大仏建立の折、あの巨大な像に塗り飾るための金がなく、「かねのみたけ」として知られる金峯山の蔵王権現に祈ったところ、この山の金は弥勒の世に用いるためにあるので、分けるわけにはいかないと告げられる。弥勒の世とは、釈迦入滅後、五十六億七千万年後に、弥勒がこの世に顕れ衆生を救うときのことをさす。それで代替案として、蔵王権現が提示するのは、近江国志賀郡の川のほとりに、昔翁が釣りをするのに座っていた石があるから、その上に如意輪観音をつくりすえて祈れというものだった。行ってみるとそこは今の石山寺のところであった。そこへ観音をつくって安置して祈ると陸奥国から金が出た。そこで天平勝宝と年号を改めたのだ。
この話は、少し曖昧で、今の石山寺のあるところに、観音をつくって祈ったというのだけれども、そのときにはそこには石山寺があったわけではないようだし、そのときつくった如意輪観音が石山寺本尊かどうかはっきりしない。
ところが鎌倉時代14世紀前半の「石山寺縁起絵巻」の詞書には、二臂の如意輪観音が本尊であることが明確に示されている。巻一の冒頭は次のようにある。
それ石山寺は、聖武皇帝の勅願、良弁僧正の草創なり。本尊は二臂の如意輪、六寸の金剛の像、聖徳太子二生のご本尊なりと云々。丈六の尊像を造りて、その御身にかの小像を籠め奉る。
石山寺は、東大寺大仏殿を建立した聖武天皇の願によって、良弁僧正が創建したものである。本尊は、二臂の如意輪観音で、六寸(18.18センチ)の金剛像は、聖徳太子二生の本尊とされる。丈六(4.85メートル)の尊像を造って、その胎内にその金剛像をおさめた、とある。素直に読むと、本尊の如意輪観音は胎内仏のほうで、それを籠めるために丈六の尊像をつくったということになる。ただし巻六第三段には、寛喜二年(1230)に関白の奉った願書に「そもそも本尊如意輪観音は、御身の中に太子像を籠め奉れり」と記したことが述べられている。ここでは丈六の像のほうが如意輪観音で、胎内仏として聖徳太子像が籠められていると考えられていることがわかる。ところが巻四第五段の本堂が火災で焼けたことを記す逸話では、本尊はやはり胎内仏のほうではないかと思える書きぶりなのである。
承暦二年二月二日、当時回禄の事有りて、本堂焼けけるに、本尊煙の内を飛び出でさせ給ひて、池の中嶋の柳の上に、光明赫奕(かくえき)として懸からせ給ひたりけるを、寺僧袖に受けて、返し入れ奉りけると、申し伝へたり。
火事のとき、煙に巻かれた本堂から、本尊がポン!と飛び出して、池の中嶋の柳の上にのっかったというのである。それを寺僧が袖に受けて、元の通り納めたというのだから、飛び出したのは胎内仏であろう。第一、丈六の尊像は柳の上にものっかりそうにないし、寺僧の袖でひょいと抱えられるようにも思えないのである。絵巻に描かれた観音像をみても、とても丈六の観音像には見えない[fig.4]。
岩田茂樹「新発見の銅造仏像(四躯)と納入厨子銘文」(『石山寺本尊如意輪観音像内納入品』奈良国立博物館、2002年)によると、現存の石山寺本尊に納められた胎内仏四躯はいずれも20センチから30センチ程度の立像で、火災にあった跡がみられるもっとも古い飛鳥時代の作は施無畏与願の印を結んだ像である[fig.5a]。四躰の小像が納められた厨子に書かれた銘文によると、火災があったのは承暦二年(1078)正月二日のことで、その後も、元々あった本尊は残ったのだけれども、建暦元年(1211)五月四日についに崩れ落ちたとある。この銘文にある日付は寛元三年(1245)五月二一日となっている。岩田茂樹によると、現存像は火災の直後に造られ、ある時期までは、火災にあった像と現存の像とが二躰あった可能性を指摘している。崩壊した古像のほうは、現存のような木造ではなく塑像であったとされ、龍蓋寺(岡寺)のような施無畏与願の像であったとされる。
現存の胎内仏はいずれも六寸程度の大きさの二臂像である[fig.5b]。「石山寺縁起絵巻」の記述を見る限り、この胎内仏とそれを籠めた丈六の像とがどこか混同しているようでもある。「石山寺縁起絵巻」の詞書が書かれた正中年間(1324-26)頃には、二臂像が如意輪観音と呼ばれるようになっていて、そのせいで、どちらが如意輪観音であり、本尊であるのかも揺れていたのかもしれない。