妄想古典教室

第九回 女の統べる霊的世界

 また「春日権現験記絵巻」巻十五の第一、第二段では、ある僧侶が春日大社で居眠りしているお坊さんの頭を足で蹴飛ばしたことろ、病気になった。そこで巫女を呼んで春日大明神を降ろしてみると、「いっさい助けることはまかりならん」といわれた。なぜかといえば、頭を蹴飛ばされたお坊さんとは一心に仏典を学んでいた春日大明神だったからだという話が載る。ここに付随する画もまた鼓を打つ巫女の姿を描いている[fig.4]。僧侶に住まう家は庶民の家に比べて段違いに格上であることが一見してわかる。ただし構図はほとんど同じで、奥の間に病に苦しむ僧侶の姿を描き、手前に呼ばれやってきた巫女とその接待をする僧たちが描かれている。巫女は、塩を盛った漆塗りの高坏を前に、肩にのせた鼓を打ちながら大きく口をあけて何か語っている様子だ。貧しい庶民が呼んだ巫女と僧たちが呼んだ巫女とでは、その衣装から格が違うことがわかるが、いずれにしても貴賤を問わず、病ともなれば、市井の鼓巫女を呼んで、神を降ろして託宣してもらっていたということがよくわかる。

[fig.4] 「春日権現縁起絵巻」
小松茂美編『続日本の絵巻14春日権現験記絵 下』中央公論社、1991年

 

 ところで、なぜ神様が仏典を学んでいたのかといぶかしく思う向きもあるかもしれないが、寺と神社が現在のようにまったく別物の扱いとなったのは、明治時代に国家神道をつくりあげるにあたって、神社から仏教を排除した廃仏毀釈以後のことである。かつて神と仏の関係は、より渾然として緊密であった。とくに本地垂迹説の流行した中世には、神と仏の関係は、仏界のものたる「本地」が、神として垂迹つまりこの世に姿を顕現するのだと考えられていた。「春日権現験記絵巻」巻八第一段によると、春日大明神の本地は釈迦である。ここでは生身の釈迦像を本尊とする清凉寺に春日大明神がやってきたことを語り、釈迦が本地であることの証拠としている。
「春日権現験記絵巻」巻十六第二段には、解脱上人貞慶が、笠置寺に寺の鎮守として社を建ててそこへ春日大明神を勧請したところ、春日大明神のことばが天から聞こえてくる夢をみたとある。

  あるとき、上人夢想に、天の中に御声ありて、和歌を詠ませさせ給ふ。
    我を知れ釈迦牟尼仏の世に出でてさやけき月の夜を照らすとは
  とて、又、同じ御声にて、今様を歌ひ給ふ。
    鹿島の宮よりかせぎ(鹿)にて、春日の里を訪ね来し、昔の心も今こそは、     人に初めて知られぬれ
  となん見給ひけり。

 和歌からは春日大明神は釈迦の垂迹した姿であることがわかる。今様に唄われているのは、春日大社と鹿島神宮との関係である。いまでも春日大社のまわりには多くの鹿が生息しているが、鹿は春日大明神の乗り物であった。鹿島神宮とは「鹿」を縁語として関係が結ばれているらしい。ふつう神のことばは和歌で伝えられるのである。『後拾遺和歌集』(1086)以後の勅撰和歌集には「神祇歌(じんぎか)」という部が立てられて、神のうたった歌を集めている。神の歌といっても、実際には神のことばを媒介する巫覡が語ったはずであって、巫女は和歌にも通じた教養人でなければならなかった。ところがこの絵巻では神が和歌だけでなく、今様を唄ったことが記されているのである。今様を唄ったのは遊女たちだったわけだが、遊女が巫女であったせいで、いつのまにか神のうたに遊女たちのなじんだうたが取り込まれていっているのである。
 さて『梁塵秘抄』によると、巫女の使う神降ろしの道具には、鼓のほかに、鈴、弓などもあった。にもかかわらず、「春日権現験記絵巻」が徹底して鼓巫女の姿を描きつづけたのはなぜなのだろう。そういえば、鼓巫女といえば、かの「石山寺縁起絵巻」にもひそかに描かれていたではないか。

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