ひきこもり支援論

第2回 どこから〈聴くこと〉は始まるのか

〈動けなさ〉が見えるようになる

 それを通して見えてきたのは、当事者へのネガティブな感情が、かれらの理解しがたさに結びついているということでした。当事者はたいてい自分の現状を否定的に捉えており、何とかしなければならないと格闘しています。だからこそ支援団体や自助グループにアクセスしてくるはずなのですが、大半の人はなかなか行動を起こしません。起こせないのか、起こさないのか、そのどちらなのかもよく分かりません。どうして「働きたい」とか「人ともっと関わりたい」と強く訴えながら、この人たちはそれに向けて動き出さないのだろうか。これについての納得いく説明が見当たらないために、私は当事者に対して苛々したり、歯がゆさを感じたりしていたのです。

 しかも、驚くことに私はこのときまで、この根本的な疑問を見過ごしていたことに気づいていませんでした。言い換えれば、口で何と言おうとも頑として体が動かない姿を目の当たりにしていたはずなのに、私にはそれが見えていなかったのです。ただし、何とかしなければならないという思いとは裏腹に当事者たちが身動きをとれずにいること(これを〈動けなさ〉と表現したいと思います)が見えていなかったのは、私ひとりに限ったことではありませんでした。

 そうこうしているうちに、「ひきこもり」をイギリスの若者自立支援政策から輸入された「ニート」に回収する動きが生まれ、就労および経済的自立を果たしてこそ回復という見方がいっそう強化されました。このときはまだ「ひきこもり」の集まりを超えていけない(いかない)当事者をジリジリする思いで見つめていましたが、かれらが就労に向けて煽られ駆り立てられていく姿に、次第に重要な何かを見落としているような気がしてきました。

 その何かが鮮明になったきっかけは、経済学者の玄田有史さんの「働くことや生きることの意味に拘泥せず、とりあえず働いてみればいい」というアドバイスでした(『働く過剰』NTT出版、2005年)。この玄田さんのアドバイスは、極めて真っ当なように思われます。初めて聞いたときは私も頷きかけましたが、すぐに次のような疑問が湧いてきました。「とりあえず」程度で動けるなら、当事者たちはそれほど苦しまないでいられるのではないか? また、「ひきこもり」が社会問題に発展することもなかったのではないか?

 自分を含めて多くの人が見落としていた何か、それは当事者たちの〈動けなさ〉にほかなりません。「とりあえず働いてみればいい」という言葉がもっともらしいアドバイスに聞こえるのは、〈動けなさ〉が見えていない、あるいは見えていたとしても、その正体が分からなかったからだと考えられます。不可解さが当事者への否定的感情を生み出しているならば、この〈動けなさ〉を説明することによって、そういう感情とも折り合いがつけられようになるはずです。

分からないことが分かる――〈聴くこと〉の出発点

 このように、不可解さが当事者への否定的感情の源泉になっていることに思い至ったわけですが、かれらの〈動けなさ〉が長らく見えなかったのはなぜなのでしょうか。現場ではあたりまえ過ぎる光景になっていたからだという理由も考えられますが、私の場合はむしろ、当事者への共感にこだわっていたことのほうが大きいように思います。先ほど述べたように、私はある時期から当事者に対して意識的に距離を取るようになっていました。それでも内心では、やはり自分と当事者は同じとは言わないまでも非常に近い存在だと感じており、かれらのことを分かっていたつもりになっていたのかもしれません。

 経済的にも道徳的にも働かなければならないと強く意識しながら、いえ、この際どのような意識を当人が持っているのかは問題ではなく、とにかく体が動かない人びとがいるということ。この目の前の現実を素通りして、当事者にとって「ひきこもり」とはどういう経験なのかという問いに答えることなどできるはずがありません。こうして私は当事者への共感からいったん自分を切り離し、改めてかれらの経験に分け入っていくことにしました。ここに来てようやく私は、〈聴くこと〉の出発点に立つことができたのだと言えます。

〈聴くこと〉の出発点、これを一言で表現するならば「分からないことが分かる」ということになります。もう少し丁寧に言えば、自分には分かっていないことがあると認めること、そして自分が何を分かっていなかったのかが明確になるということです。この2つの意味において分からないことが分かったときに、初めて相手に対して愚直に向き合うことができるのではないでしょうか。逆に言えば、この2つがおろそかになっているときに、「分かったつもり」になってしまうのではないでしょうか。「分かったつもり」になっているときは、誰の声もきちんと耳には入ってきません。

 ここまで私自身の調査者としての道のりを辿り直すことで、次のことが明らかになったのではないかと思います。それは、当事者に対する共感への囚われが「分からないことが分かる」のを邪魔していたということです。自然と湧きあがる共感をわざわざ抑える必要はないにしても、共感が自分の目を曇らせることがあるということは、よくよく肝に銘じなければなりません。むしろ私に当事者の姿をはっきり見せてくれたのは、あってはならないものとして封じ込めようとしていた苛立ちやもどかしさでした。調査において、そして支援においても、相手に対する共感が大事だと言われます。ですが、目の前の現実を見据え、相手の存在を受け止めることが妨げられてしまうならば、あえて共感を手放すことが必要なときもあるのです。

 さて、前回の冒頭で、当事者の声をきちんと〈聴くこと〉自体が支援になりうると述べました。次回は、このあと私が当事者の〈動けなさ〉をどう読み解いていったのか振り返りながら、〈聴く〉とはどういうことか、なぜ〈聴くこと〉が当事者の生を支えることになるのかということを考えたいと思います。

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