ちくまプリマー新書

「いのちはなぜ大切なのか?」に答えはあるか

 いのちはなぜ大切なのでしょうか?
 少年による傷害事件、いじめによる自殺などが報じられるたび、子どもたちに「いのちの大切さ」を伝えなくては、という議論が起こります。「いのちの授業」も、いまさかんに行われています。しかし、果たして私たち大人は、いのちの大切さをわかりやすく示すことはできるのでしょうか?
 結論を言えば、それは非常に難しいことです。
 たとえば、「いのちはたった一つのもの」だから大切なのだ、という典型的な答えがあります。そして「限りあるいのち」を実感させる演習として、「あと半年の命だったら、あなたはどのように生きるか」という設定で毎日の生活を見つめなおすという授業も行われています。「自分に残されたいのちはあとわずか」と思えば、あたりまえの生活がとても輝いて見えてきます。健康なときには気がつきにくい、日常の幸せに気づくのです。あたりまえに布団で眠れること、あたりまえにお風呂に入れること、あたりまえに家族と食事ができること。こんなことが実はとても幸せなことだったのだと実感できます。
 ただ、この演習には限界があります。「明日がない」と思いながら生きることは、真剣にやるほどとても疲れます。張り詰めた気持ちが長続きしないのです。ですから、「あたりまえのいのち」に感謝する気持ちも、数日は続くかもしれませんが、時間がたてば薄れてしまうのです。
 もう一つ、こんな典型的な議論もあります。最近の調査によれば「死を怖いと思わない」「死んでも蘇ると信じている」、そんな子どもが増えているらしい。死に対する「正しい認識がない」から、傷害事件が起きるのだ。いのちには限りがあること、死は怖いものだということを徹底的に教えなくてはいけない。こういう意見です。
 一見正論のようですが、私はこの考え方には疑問があります。まず「正しい死の認識」ということも怪しいところですが、現実的なところでは、難病をかかえた生徒や、不治の病で闘病している親御さんのいる生徒に対し、この前提では授業展開できないことです。彼らに向かって、「死んだら蘇らない、死は怖いものだ」と教えることが、いかに残酷なことかご想像いただけると思います。特に終末期医療に携わる医療従事者として、この問題点を痛切に感じています。いずれにせよ、こちらもいのちの授業としては、普遍的なものにはならないようです。
「いのちはなぜ大切なのか?」その問いに、自然科学の世界のように、スッキリした正解はありません。では、いのちの授業は不可能なのでしょうか。ここで、なぜいのちの授業が必要なのか、もう一度考えてみましょう。いのちの大切さを教えることによって、イジメによる自殺や、少年による傷害事件などをなくしたいというのが、そもそもの願いでした。
 私は、学校などに招かれていのちの授業をするときに、FIFAワールドカップ・ドイツ大会決勝戦での、ジダン選手の頭突き事件の話をします。「なぜジダン選手は、頭突きをしたのでしょうか?」「ジダン選手は、人を傷つけてよいと思っていたでしょうか?」多くの生徒が、家族をひどく侮辱されて苦しかったからだと言い、人を傷つけてもよいなどとは思っていなかった、と答えます。私は、この事件は私たちの人生の縮図ではないかと感じています。たとえ人を傷つけてはいけないと頭でわかっていても、我慢できない苦しみを抱えたとき、人は誰かを傷つけたり自らを傷つけてしまうことがあるからです。たとえジダン選手のような英雄でも。
 いのちの授業の真の目的は、ただいのちの大切さを伝えるだけではありません。たとえつらくても、たとえ苦しくても、誰かを傷つけない、自らを傷つけないための生き方をみんなで考えていくことであると考えます。そして、ホスピス・緩和ケアで学んできたスピリチュアルケア(人の存在と生きる意味を支える援助)の中に、このエッセンスが含まれていることを学んできました。この度、それをちくまプリマー新書として形にすることができました。是非ご一読下さい。

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