妄想古典教室

第十一回 鏡よ、鏡よ、神々よ

あらぬものを映す鏡
 平安宮廷物語にあらわされる鏡をもう少しみてみよう。
『源氏物語』で、須磨へ向かう光源氏が紫の上と交わした別れの和歌は、この身が離れ離れになっても、鏡を見ればそこに影像が留まっているから、というものである。

身はかくてさすらへぬとも君があたり去らぬ鏡の影は離れじ

別れても影だにとまるものならば鏡を見てもなぐさめてまし

 平安宮廷物語では、鏡はそれに向き合う者の姿をただ映すものではなく、いつか映した影をずっと留めているもの、あるいはそこに遠くから影をよび寄せることができるものとして妄想されていた。
 あるいは、藤原定家の手になると言われる『松浦宮物語』でも、鏡は別れのときに面影を留めるものとして贈られている。後にこの鏡をみると、「見し世はさだかに映りけり」とあって、過去に愛した女性がはっきりと映しだされ、彼女の香りまでも発するのである。面影を映す鏡という、まるで現在の写真のような発想は、そもそも鏡が目の前のものを映し出すだけではなくて、目の前にあらぬものを映すものだという妄想からきているだろう。こうした妄想は、巫覡による降霊術が形成したものではなかったか。巫覡は、霊界から死者を降ろし、鏡に映して対話するとか、神の姿を寄せるとかいったことをやっていたのである。
 室町末期成立とされる御伽草子『花鳥風月』には、鏡に光源氏と末摘花の霊を寄せて語る口寄せ巫女が描かれている。雨の日のつれづれに、男たちが集まって、扇合わせをしている。ある扇の絵に、美しい貴族男性と、そのかたわらに口元を袖でおおっている女性が描かれている。この絵の男が、在原業平なのか、光源氏なのかをめぐって論争が起こった。
 そこで、過去未来のことを明らかに占い、空飛ぶ鳥も祈り落とすことができるという女巫女の姉妹、花鳥と風月を召して占わせようということになった。まずは梓弓を打ち鳴らしながら、業平を降ろして、花鳥に憑かせ、風月が問い手となって問答する。しかし、扇の絵に描かれた男が業平なのかはどうかはわからなかった。そこでこんどは、光源氏を鏡に呼び出すことにする。この鏡は「生霊、死霊、人間、畜類、仏神三宝」のなんでも顕われないことはない「神鏡」なのだという。呼び出された光源氏は、なんと扇の絵に描かれたとおりの男であった。はじめ花鳥が光源氏になりかわって語っていると、風月が正体をなくした様子でなにかに取り憑かれているようだ。すると鏡に扇に描かれてあったとおりの女が源氏のそばに寄り添うように映った[fig.2]

[fig.2] 国文学研究資料館蔵『花鳥風月』(日本古典籍データセット)

 

 風月が末摘花となって、花鳥の光源氏と問答する。末摘花は、光源氏の恋のお相手のなかでもひどい描かれようをした女性なのだが、ここでも光源氏は「そもそも誰なのだ、見たこともない人の姿だな」などとつれないことを言う。そこで末摘花は恨みつらみをこめて光源氏との関わりを語ってきかせる。末摘花は、恋しき人をせめて鏡に映してながめようと、鏡に寄って光源氏の影をみようとしたのだが、そのかたわらに鏡をのぞき込んでいる自分の姿が映ってしまう。そこに映る姿は『源氏物語』に普賢菩薩の乗物、すなわち象のように垂れた鼻だと書かれた醜い姿で、さすがに恥ずかしく、愛執を断ち切りたい一心で顕われ出てきた。どうか後生を弔ってほしいといって鏡の中から去っていった。風月は夢から覚めたように正気を取り戻した。花鳥に取り憑いた光源氏も罪障の闇が晴れて悟りを得た境地であると言って、花鳥が座敷を立つそぶりをみせると、鏡の中の姿も消えた。
『花鳥風月』の物語では、鏡は霊を映し出すだけではなく、末摘花が語るように、恋しい人の面影を眺めるためのものでもある。末摘花の語る話によれば、鏡が目の前にあらざるものを映すとき、同時に目の前のものも二重映しにしてしまうことがわかる。
 このようにして巫覡は、鏡に霊を寄せ、霊のことばを語ることをしていたわけだが、しかし物語ならいざしらず、実際には、巫覡に霊が取り憑いているだけで、その巫覡が映っているだけのことだろう。ここに物語のような真実味を加えたいと思うのは人情である。鏡に仏神の姿がほんとうにやってきたことを演出するために、鏡にキズをつけて角度によっては像が見えるようなイカサマを思いついてしまったのかもしれない。鏡面に仏や神の姿を線刻した鏡像とよばれる遺品がいくつも伝わっている[fig.3]。『花鳥風月』で鏡に寄せた像と鏡に向かう者とを二重映しにしたように、巫覡の映る鏡に、仏や神の姿がうっすらと現れる、そんな趣向だったのかもしれない。鏡像の登場によって、仏神に取り憑かれている巫覡の姿を仏神そのものなのだと思いなすという、やや無理のある妄想力にたよらなくても、誰でもはっきりと仏神の姿をそこに見ることができるようになったわけである。

[fig.3] ニューヨーク・メトロポリタン美術館蔵 十一面観音鏡像(12世紀)

 

 鏡像が線刻というかたちで、淡く影像を表しているのは、鏡の姿見の機能を維持しようとしたせいだろう。つまり目の前の巫覡も映しながら、神仏を映す二重映しの機能こそを重視したのである。そこに巫覡が映っていて、その巫覡が神がかっているのなら、それでよしとすべきなのに、鏡に神仏を薄く表して、巫覡の姿と重ね合わせるなどはわかりやすくも過剰な表現だ。
 この過剰な表現は、たとえば、春日鹿曼荼羅のバリエーションにもよくあらわれている。奈良の春日神社周辺は、今でも多くの鹿が生息している。鹿は神の乗り物として神聖視されているのだ。この鹿に春日明神が寄りつく様子を描いたのが春日鹿曼荼羅である。春日鹿曼荼羅で検索するとさまざまな形式の画幅をみることができる。それらの制作された年代の前後関係は不確かだが、妄想的に類別するに次のような次第であったのではないかと思われる。
 まずは鹿が馬でもないのに背中に鞍を乗せている姿を描いて、そこに見えない神が乗っていることを象徴的に示す。ところが、鹿の背に神が乗っているということをダメ押しのようにして説明したくなったのだろう。なにせ神の姿は見えないのだから描けないわけで、ならば鞍の上に神を寄せる紙垂(しで)のついた榊を乗せて、そこに神が寄ってきているサインを明示するのである。この時点でかなり説明的になっているのだが、依代(依り代)に神が寄ってきたことをさらに正確に表現しようとして、鏡に映る本地仏も一緒に描いてしまうのである。依代は神を寄せる道具、鏡に神が寄る。そして鏡に本地であるところの仏の姿が浮かぶ[fig.4]。こんなふうにますます説明的な表現となっていったのではあるまいか。

[fig.4] ニューヨーク・メトロポリタン美術館蔵 春日鹿曼荼羅(14世紀)

 

 これでも足りないとすれば、信仰についての理解力の著しい劣化があったとしか思えない。それは信者のせいか、宗教者のせいかはわからないが、ともかく、鹿の背中についに神様をあらわす束帯姿の男性を乗せてしまうに至るのである。本来は鹿を見て、そこに神を観取しなければならないのだが、ただの鹿にみえてしまう愚鈍な観者のために、神の寄る依代を加え、神の本地仏をうっすら映した鏡を加えて、さらには神とおぼしき人間を描きこむといったふうに、過剰性をいや増していくのである。
 そんな過剰性の志向は鏡像にも変化をもたらす。鏡面に顕現する神仏の姿をあくまでも幻視させるような淡い線刻の手法で表現してきたことに飽き足らず、鏡面に立体的な神仏の像を彫り出し、ついには完全な立体を張り付ける方法を編み出していくようになるのである[fig.5]

[fig.5] ニューヨーク・メトロポリタン美術館蔵 懸仏(15世紀)

 

 これを懸仏(かけぼとけ)というが、懸仏のキッチュなフェイクぶりは、さらに徹底されて、ついに鏡であることを手放してしまいもする。といっても、やはり懸仏は鏡でなければならないという思いは残っていたらしく、木製の板に、鏡に見せかけるための素材を貼り付けてますますフェイクぶりに磨きをかけていくのだ。
 懸仏は、神の、鏡への憑依のリアルな表現であったはずだが、しかし稚拙な仏画や神像の図はかえって神が宿ることを観念的に思考させるものから後退させてしまう。懸仏はもはやそこにリアルな神仏を見せてくれるものではなく、数ある神仏の彫像や絵画と等しく、象徴を形象化するものにすぎなくなる。懸仏となった鏡は、もはや鏡に向き合う者の姿を映し出す隙をほとんど残していない。
 そこに向き合う者が映し出されれば、映り込んだ巫覡の姿を神仏の憑依した者かつ神仏そのものとして幻視し、巫覡の聖性を担保することとなっただろう。ただしそこには、巫覡の姿を神仏の姿だと思い込む、妄想力が必要とされる。信心には強い妄想力が必要なのである。しかし過剰に説明的な表現は観者を甘やかし、妄想力を無用のものとしてしまう。妄想力を自在に遊ばせるには、あまりに説明的であってはならない。そこに妄想の余地がなくなってしまうからだ。それに向き合う者を映すことを手放した懸仏という方法は、したがって、巫覡の存在を不要としてしまう。誰がみても、そこに像があることがはっきりわかるからだ。和辻哲郎が神器だと述べた「うつらない鏡」は、少なくとも懸仏の例をみる限り、神器であることを諦めていく予兆だったのである。
 廃仏毀釈で相当数が廃棄されたにもかかわらず、なお夥しい数の遺品が残されている。いつからか映らない鏡の懸仏は個人の祈願と祈祷のために奉じられる極めて自閉的な奉物となったのである。

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