ちくま文庫

負けゆく人への「あつい眼ざし」

『色川武大・阿佐田哲也ベスト・エッセイ』解説

「色川親方の特徴は、陽の当たる場所から隅へ追いやられたような人たちに、なにか光るものを見出す癖があることだ」

 二十代の後半、日本橋にある商社の経理課に勤めていた頃、上下関係になじめなくて滅入っていた。当時、本、特に小説は、手に取っても内容がまるで頭に入らないことが多かった。少しでも絵空事めいて感じられると、ばかにされている気がして放り出してしまう。毎日、遅刻寸前に飛び起きては満員電車に揺られ出勤し、何とか仕事をこなし帰ってくるだけで、疲れ果てていた。

 それでも、自分の悩みなどちっぽけなものだと吹き飛ばしてくれそうな作家をあきらめないで探すうち、色川武大、田中小実昌、深沢七郎、といった人たちと巡り会った。彼らの文章は、不思議なことに、栄養がしみこむように私の心の奥まで入ってきて、立て続けに読んだ。組織にがんじがらめになっていても内面では飄々としていればいいと、教えてくれた。おかげで二十代を生きのびられたと、ずっと感謝している。

 この新たに編集されたベスト・エッセイに他の二人がたびたび出てくるのを、心底嬉しく思うのは私だけではないはずだ。めいめいが、人生の裏を知り尽くした親方、みたいなイメージのする三人には、互いに響きあうものがあった。深く納得がゆく。

 色川親方の特徴は、まず、ばくち打ちであること。そして、いろんな事情や不運が重なり、本来抱いていた志から外れた道を歩むことになった人たち ―― 芸人でも、市井の人でも、陽の当たる場所から隅へ追いやられた、または、自分から隅へ吸い寄せられたかのような人たちに、なにか光るものを見出す癖があることだ。そのおおらかさに、浮かない作家志望者だったOLの私は救われてきた。

 本書には、沈んだ声でとぎれとぎれにしゃべるという陰気くさそうな落語家や、駄作ばかり撮り続けたB級映画監督などへの、おもわず「そんなに?!」と問いかけたくなるほどの、尋常でなく強い愛着が書かれている。昭和の初めに人気絶頂だった二村定一というスター歌手の落ちぶれてゆくさまについては、小学生のころから気にして、浅草へ公演を追っかけては「あつい眼ざし」をそそいだりしていたという。彼が負けゆく人を好きなのは、天性であり、筋金入りだ。身近にいたら絶対に迷惑に決まっている存在の観察の仕方も、ちょっと変わっている。元軍人でケチでしつこくて自分勝手で、だれもが毛嫌いしていたという麻雀仲間の死についてのエピソードは、その徹底したイヤな奴っぷりをむしろ面白がり、敬意さえ払っているのに驚く。

 負ける、といえば、会社での印象深い上司に、五十すぎのNさんという部長代理がいた。東大卒だけれど仕事ができなくて本社から子会社へ出向してきて、部下の女性たちとも、上の管理職たちとも不仲で、つねに板挟みに遭い、精気を削り取られたような人だった。その彼が、いっぺん、社のパーティー会場で、居場所がなく壁ぎわにじっと佇んでいた私の腕を突然引っ張り、挨拶回りに連れ出したことがある。

「こういうときは、こうしなきゃ駄目だ、木村さん! 俺のようになる!」

 と、異様な迫力で叱咤してきたNさんの真顔は、会社を辞め十二年経っても鮮やかにおぼえている。何だか、色川の文章に出てきそうな人だった、と思うのは、本書にちらりと登場する芸人、マルセ太郎の長年のファンだと聞いたせいもある。

 私が、人望厚い上司より、ついには孫会社をたらい回しになる羽目に陥ったNさんのような、出世コースから突き放された人を妙に忘れられずにいるのは、色川の影響なのだろうか。あるいは、もともと、彼に「俺のようになる!」などと叫ばれてしまう面のある人間だからこそ、色川に惹かれるようになったのか。一体、どちらだろう。

 月から金まで、毎日、昼休みになると給湯室に集まり『笑っていいとも!』を観ながら楽しげに談笑し、ランチを食べる女性たちの輪に、私はどうにも溶け込めなかった。しだいに、一人で外食に出かけたり、どこかで買ったお弁当を公園で食べることが多くなった。私の眼には、スムーズに輪になじめているように見えていた人のなかにも、急に姿を見なくなった、と思ったら、心の病が原因で退職したのだ、とあとでうわさになる人もいた。私は極度な社交下手でも、伝票を計算し、取引先への支払いデータを期日に合わせ銀行へ送る、といった業務は、黙々と手抜きせずやっていた。それは私の、ぎりぎりの真摯さだった。

 息詰まると、しょっちゅう、トイレへうたた寝しに逃げ込んでいたあの頃の私は、色川武大になら見捨てられないだろう、と存在全体を受け止められているように思っていた。本を読むことを通じ、かけがえのない安心感を与えられていた。いま、こんな器の大きなセーフティネットといえる作家はいるだろうかと、考え込んでしまう。助けを求め引き寄せられる読者は、このさき、ますます増えるのではないだろうか。

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