PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

老害と依存

男らしさはどこへ行く?・2

PR誌「ちくま」9月号より河野真太郎さんのエッセイを掲載します

 こじれた男らしさを解きほぐすことへの呼びかけで始めた本エッセイであるが、現在もっとも厄介なこじれた男らしさにつけられた名前、それは「老害」である。老害という言葉自体は男のみの問題ではないものの、この言葉でイメージされるのは、引退すればいいのにいつまでも居座って旧弊な価値観を押しつけてくる高齢の男性ではなかろうか。
 老害は、高齢化社会の問題ではない。「老害」問題が示唆するのは、私たちの社会の変化にともなう、「依存」という観念の変化であろうと思う。
 政治哲学者のナンシー・フレイザーとリンダ・ゴードンは「依存の系譜学」という論文で、福祉国家時代には「正しい依存」とされていたものが、その後の新自由主義時代においては正しくないものとして批判されてきたことを指摘した。正しい依存とは、病者、障害者、失業者、主婦、そして高齢者の依存である。
 これらの人びとは今や、依存することが許されない。何への依存かといえば、福祉への依存である。依存しないとはどういう状態か。働いて自立して生活することだ。
 ノーベル賞受賞作家カズオ・イシグロの出世作『日の名残り』は、老齢を迎えたイギリスの執事スティーヴンスの物語である。新たなアメリカ人の主人に仕える彼は、貴族の秩序を中心とするイギリスの黄昏と、みずからの人生の黄昏に思いをはせる。だが、物語の最後に彼が到達するのは、「冗談を言う」という、それまで彼が身につけてこなかったスキルを身につけて、新たな主人に仕えていこうという決意である。老齢に至った彼が、老後という依存状態に甘んずるのではなく、新たなスキル(しかも冗談というコミュ力──前回、『恋愛小説家』の主人公が獲得したポストフォーディズム的能力)を身につけて働いていこうと決意する。『日の名残り』は依存を禁じられた現代の老人たちの物語である。
 このような老人たちは、依存状態におちいり、いわば「女性化」することを拒む。その結果、スティーヴンスの父(彼も執事なのだが、老齢のためにおぼつかないのを無理に仕事をして大失敗をやらかす)のような「老害」となってしまう。
 このような依存と老齢、そして男性性について新たな視点を与え続けてくれている映画監督が、マイク・ミルズである。『人生はビギナーズ』の父は、長年連れ添った妻が亡くなった後に、みずからがゲイであったことをカミングアウトし、ゲイとしての余生を謳歌する。新自由主義によって老後を奪われつつある私たちであるが、ここに提示されている「老後」は、私たちが知っているどんな老後とも違う。ただし彼は癌をわずらって余命幾ばくもない。その病者としての依存状態はいかにして支えられるのか。それは、ケアをする息子の存在によってである。次回、マイク・ミルズ監督作品を通じて、「ケアする息子」の可能性を追ってみたい。

PR誌「ちくま」9月号

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