ちくま文庫

社会に生命の脈動を 増補版

『狂い咲け、フリーダム――アナキズム・アンソロジー』書評

どんなに状況が悪くても、ひとつの社会が再生できる火種があるとしたら、それはアナキストが「反権威」と呼ぶ感性からだ……。『暴力の哲学』の著者・酒井隆史氏が、webちくまのために大幅に書き足した増補バージョンです(PR誌ちくま掲載のものに増補)。栗原康氏編著の『狂い咲け、フリーダム』の重要ポイントを酒井氏ががっちり読み込みます。

 評者には、なんとなく「日本社会の最低ライン」とでもいうべき場面があって、要するに、これがあればまだこの社会はだいじょうぶという意味なのだが、それは具体的にはこんなシーンである。昼間の街頭で、街宣の場所をめぐって理由は定かではないが左翼学生と右翼活動家とのあいだに小競り合いがはじまった。その不穏な空気に、興味を惹かれつつも一歩引きながらサラリーマンや買い物帰りの主婦が、わらわらと野次馬として集まってくる。やがて、そこに機動隊がやってきた。そうすると、一転、空気はがらりと変わり、左翼と右翼、サラリーマンも主婦もいっせいに肩を並べはじめ、機動隊にはつぶてとヤジが飛ぶ、と、こういったものである。たとえば1980年代でも、あの金八たちですら、学校による差別に抗議して放送室を占拠した「不良」たちを拘束しに校内に入ってきた警察を阻止すべくスクラムを組み、日頃、決して生徒に同情的とはいえない教員まで、警察官にむかって「わたしを殺していけ」と絶叫していた。もちろん、じぶんの感覚が普遍的だとはいわないし、こんなことが実際にあるかどうかはべつとして、評者のこれまでの人生でえられた実感は「みんなポリだけはきらいだなあ」というものであったのである。金八だけじゃないが、この時期までのTVや映画では、おおよそ「秩序派」は「変人」と決まっていた。これは両義的なのだが(まあ、なんでもそうなのだが)、警察官(刑事)ですら、肯定的に描かれるときはたいがい掟破りの「反秩序派」としてあらわれたのである。もう少し正確にいうと、警察、軍隊もそうだが、国家の暴力性にかんする過敏さと反撥が社会のうちに薄くいきわたっていたというべきだろうか。

「最低ライン」というのは、この社会がまだ生命をもっているということである。つまり、どんなに状況がひどくても、多数派はファシズムにもっていかれてしまったとしても、あるいは、なんらかの巨大な変動にみまわれ危機状態におちいったとしても、ひとつの社会が生きているというしるし、あるいはひとつの社会がそこから再生できるであろう火種があるとしたら、そこ、つまり、この感性――アナキストが「反権威」と呼ぶ――からということである。アナキストであれば、こう考えるだろう。民衆の警察への嫌悪や忌避のうちにひそんでいるのは、警察なしに、ということは、国家による暴力の脅迫によって萎縮させられたり指図されることなく生きたいという人々の欲求であり、それが、社会を内発的に構成するモラルであり力なのである、と。 

こういう「衒学」はこのアンソロジーの勢いにそぐわないかもしれないが、近代アナキズムの創始者ともされるピエール・ジョゼフ・プルードンが、「公認の社会」と「真実の社会」とを区別して真実の社会にアナーキーな秩序をみいだしたのは、まさにこのような国家の強制力なしにひとが生活を営んでいる広大な地平をすべての基盤とみなすためだった。公認の社会、たとえば国家や法、教会を逆に基盤とみなす、そうした転倒を粉砕するためである。アナキズムの理想とする社会は、すでにこの現在のなかに、しかももっとも強い現実としてある。しかしそれは、法や行政機構、道徳の支配する公認の社会のうちに埋没してしまいがちである現実なのだ。もっと厄介なのは、そうした権威(公認の社会)があってこそのわたしたちです、と、転倒が起きてしまうことである。アナキストはこの転倒に抗議するのだが、あくまでかれらのみつめるのは、いまここに生きるわたしたちのありようである。栗原康が本書でなんどかくり返しているように(かれはこれを重大だと考えているのだ)、たとえ、アナキズムが運動というかたちをとっていたとしても、アナキズムの核心はやはり「反運動」であり「反政治」である。政治も運動も、ふつうそれはなんらかのための手段と考えられている。その極端な表現は「目的のためなら手段も選ばず」である。目的はここでは未来といいかえてもいい。この発想には、選挙による議会における多数派獲得から国家権力の奪取まで、さまざまなヴァリアントがあるが、政治や運動が目的のための手段とされていることは共通している。だからこそアナキストは、なにか目標を掲げて「政治」や「運動」をやっているようにみえても、同時に、政治に反対し、運動にも反対しているのである。そうした目的のための手段としていまのわたしの欲求、いまのわたしの自由を犠牲に捧げることをアナキズムは拒絶する。そして、かれらが未来をみるとしたら、「いまここ」のうちにである。「古い社会の外殻にあたらしい社会をつくりだす」と、19世紀以来、アナキストたちはしばしば口にする。のぞましい未来社会の実現という目的とそこにいたるための手段が似ていなければ、その未来社会もありえないというのがアナキストの感性である。世の中を変えたいから自由は我慢しろ、規則は守れ、和を乱すなといった、上からいわれる前にみずから規制をはじめてしまう人間たちがつくる未来社会がどのようなものか、わたしたちはおよそ想像できるはずだ。アンソロジーにも登場する神長恒一――ひさしぶりに文章を読んだが、いってることはシビアなのに本当におっかしい――がよくいうように「いまここでフラワー」こそ、アナキズムの真髄なのである。今回のアンソロジーのセレクションは、気ままにみえてアナキズムの中核を余すところなくすくい上げてみごとなのだが、たとえば、そのひとつが伊藤野枝の「無政府の事実」である。伊藤はそこで、ロシアのアナキストのクロポトキンに学びながら、旧弊で不合理そのものにみえる地方の農村の営みそのもののうちに、あるべき社会、国家やその暴力を遠ざけて生きるひとの知恵と仕組みをみいだしている。これは、典型的なひとつのアナキズム的姿勢である。

 とすると、いまの日本の最大の危機はなんだろうか? 極右の安倍首相がいつまでも居座っていることだろうか? わたしはそうは考えない。本当の危機は、アナキストではなくともだれにでも備わっている、この「アナキズム精神」がほとんど消えかかっていることだ。あえていえば、安倍首相の支持率が落ちないという現象も、この「アナキズム精神」の消滅とそれにともなう社会の衰弱という、大仰にいえばこの列島の民衆による数千年の蓄積の解体のひとつのあらわれにすぎない。先ほど「秩序派」を「変人」といったが、実際、1980年代までの映画や小説などでも「秩序派」の優等生はたいてい「変人」(悪い意味での)であって、端的にイヤなヤツだった。この社会を支配していたのは、そんな「秩序派」であったとしても、である。それに比べていまはどうだろう? いまや上下左右どこにも「秩序派」しかいなくなってしまったのではないか? たとえば、近年とみに目立つようになった、イベントのあとのゴミ拾いにゾッとしない感性とはなんだろうか。これでこの社会が原発の廃棄物の「ゴミ拾い」にもおなじぐらい過敏であるのならまだわかる。ところが周知のように、現状はまったく異なっている。小学校の掃除を、ほうきでちゃんばらとかゴルフとかもおたがいに禁じつつ、自発的にまじめにやっているという感じなのである。評者は昨今のこのゴミ拾いが、社会の内側にある生き生きとしたものへの忌避感、多種多様な人間(たとえば野宿するひとたちもふくめてである)がおたがいにせいいっぱい生きていること――だから衝突は必然である――への否定感、少数派や異端への忌避感(社会のゴミは始末しよう……)、すべては統制されてあるべきであるという理念、要するに、乱調にこそ美があるという標語に凝縮されたアナキスト的感性の消滅のひとつの徴候をみる。

そんなとき、このアンソロジーがやってきた。列島を駆け抜けた「イカれた」アナキストたちの「イカれた」文章で、アナーキーというガソリンを涸渇させながら死に体と化しているこの社会に息を吹き込み、生命の脈をふたたび鼓動させんとする試みである。選択されたテキストは、「これしかない」というものばかりである。編者栗原康のその攪乱的スタイルと反知性主義的ノリによってみえにくくなっているが、実に配慮がゆき届いているのだ。アンソロジーの背骨を構築しているのは、栗原自身の現代的経験やそれにもとづく実は図太い歴史認識、さらにそこからくる思想的・実践的論点であり、現代日本「社会」(「政治」ではない、それがキモである)がどこで大きく墓穴を掘っているのか、みずからの隷属を招いているかの冷静な分析である(一例をあげれば、おそらくアナキズム史においてはマイナーな八太舟三(はった・しゅうぞう)の階級闘争説批判をとりあげ、栗原はそこに「経済は尺度のポリス」であり「経済はいらない」のだ、という主張を読み込んでいる。こういうところである)。それに、このアンソロジーは、たいていのそれとは異なり重量級である。すなわち、個別のテキストがずしっとした量感をもって存在して、そこにひそむ主張の意義を十全に汲み尽くせと要求している。

一読されたら、個々のテキストが、きわめてユニークな文体をもっていることに、おそらくだれもが気づかれるだろう。全体を読めば、文体と思考の規律というか硬直が無関係でないことがわかる仕掛けになっている。大部分アカデミズム外にある日本のアナキズムの系譜が、知的制度や論壇ジャーナリズムが「落としどころ」「みばえ」「流行に逆らわない」「変人にみられない」そしていまの日本では「是々非々のほどほどを知った人にみられたい」といった基準によって自警するところで、このアナキストの系譜は野蛮な荒々しさで、不自由なフレームそのものを転覆していく。文体のユニークさは、このかれらの生と密接不可分である荒々しさに直結しているから意味がある。そして、この系譜が、編者の栗原康にまで脈々と受け継がれているのはいうまでもない。

また、このアンソロジーの独自性は、神長恒一、矢部史郎(やぶ・しろう)、山の手緑、マニュエル・ヤンといった、近年の「アナキスト」の文章まで収めていることにもある。かれらの独特のユーモアには着目してほしいとおもう。アナキズムにあってマルクシズム(にかぎらないのだが)に希薄なのは、外にむけて大胆で内にむけて繊細といったかたちで、他者とじぶん自身を行き来するすばしこい知性の働きと共鳴しているユーモアである。たとえば編者と同様、わたしも矢部史郎の、思考は奔放なのに文体は端正で、それでいてユーモアをふんだんに湛えた文章にいつも刺激を受けている人間であるが、在野でありかつ体制におもねることなく思考する人間が低評価に甘んじざるをえない現代日本の知的環境のなかにあって、このようなかたちで照明が当てられるのはうれしい。しかも、この「エキセントリック列伝」のうちに位置していても、なんら遜色がない。わたし自身もときにそこにあった「現場」も、栗原の筆によってこう書かれると、わたしたちもムダなことばかりしていたわけではなかったのだと勇気づけられもするのである。

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