ちくま文庫

遠藤ミチロウと遠藤道郎

『嫌ダッと言っても愛してやるさ!』解説

日本のパンクロックの元祖・遠藤ミチロウ氏の最も愛した自著エッセイを、映画監督の石井岳龍氏が読む。 「素顔の彼を初めて知ったのは『爆裂都市』の地道なアフレコ作業の時だ。」

 この遠藤ミチロウエッセイ集『嫌ダッと言っても愛してやるさ!』は、彼がバンド「ザ・スターリン」を始めた1980年から85 年、時代の寵児としてマスコミや世間を大いに攪乱した時期(同じく私が彼と濃い仕事をした時期)のエッセイや対談、他に代表的な歌詞や貴重な詩などが収めてある。本人が“2007年リミックス新装版あとがき”ページで語っているように、“30代前半5年間の肉体も脳ミソも一番活発に躍動してた時”の“血管を血がドクドクと流れていくのがよく感じられて、恥ずかしいぐらい”に生々しい迫力に満ちあふれた文章群であり、“今まで出したどの本よりも一番好き”で“人目にさらさないよう、愛おしく隠すように抱きしめたい”と書き残した本の文庫化だ。

 

 私がミチロウを知ったのは、1980年、まさにスターリンが結成された直後だった。スターリンの初代のベーシストになる杉山晋太郎とは同郷の福岡で知り合いだったが、彼が上京し私が住む高円寺の近くに越して来たのをきっかけに、よく飲んで遊んでいた。「めっちゃ面白い人とバンドがいる」、「弾けないのにベースを担当してくれとスカウトされて練習している」と、楽しそうに教えられたのがミチロウとスターリンだった。福岡にいる時は、明るくハイカラなスピード感を持つ典型福岡ロッカー然のシンタロウだったが、上京してからはオルタナティブな文学や音楽指向が急激に高まり、日に日に毒華(どくげ)な臭いを身に纏(まと)い始め、私が全く無知だったヴェルヴェットアンダーグラウンドや興味深いフランス文学の数々を教えてくれたりして、彼のセンス急成長ぶりには瞠目させられていたので、彼が入るというバンドに私は俄然注目したのだ。

 私も映画『狂い咲きサンダーロード』公開やら次の企画(紆余曲折で『爆裂都市』になる)やらで、熱い狂騒の日々を過ごしていたが、「電動こけし」ソノシート、「スターリニズム」5曲入EPと、時々シンタロウと会って知るスターリンの活動力の急上昇度と、比例してのシンタロウの凄みの加速ぶりは壮絶だった。いつスターリンのライブを初めて見たか、ミチロウと初めて会ったかは覚えていない。シンタロウと同じくすぐ近くに住んでいながら、ミチロウは酒も全く飲まないし、6歳ほど上だったし、ロックミュージシャンというよりはヤバそうなテロリストに見えたし、80年大晦日の新宿ACBのライブは強烈に記憶にあるが、ライブ後は冷静に話をするような雰囲気ではなかったし、私も難しいことを話すのは苦手だったので、彼の人となりはほとんど何も知らなかった。

 素顔の彼を初めて知ったのは『爆裂都市』の地道なアフレコ作業の時だ。日常の彼を知る人が誰でも伝えるように、ミチロウの仮面を脱いだ彼はまるで別人で、眼鏡をかけ東北訛りで腰の低い控えめで穏やかで知的、温厚で優しく不器用な人であった。ライブで観客を狂乱させ挑発しまくるスターリンの楽曲やパフォーマンスは、日雇い労働で鍛えられた彼の強靭な肉体が象徴するように、独り黙々と孤独な作業を通じて鍛え上げられた思考がパンキッシュ&オルタナティブな破壊力と呪力に満ちたリズムやフレーズと意図的、突発的に衝突させられて発火爆裂し、自己の思考や幻想や表現からの突破と同時に、バンド仲間との関係の突破、集まった観客たちとの共同幻想の破壊と突破、前もっての予定調和をすべて破壊しライブ表現に関わるすべての事象を次の次元へ引き上げてまだ見ぬ地平へ突破させたいという高潔なる意志、大いなる野心、悪魔的戦略、狂的な(本来の大道)芸能力、無謀な先導、窮鼠(きゅうそ)反撃の火事場バカ力など、矛盾するエネルギーの幾重の渦巻の衝突によって、遠藤道郎を遠藤ミチロウに突然変異させて奇跡的に出現したモノであると思われる。


 この突然屁ン異を生み出すきっかけとなったのは、根暗なコンプレックス者で内なる破壊表現衝動に悶えていた私に同様の発火力を与え給うた、スターリン結成数年前からのパンク~オルタナティブムーブメントであろう事は間違いない。ただし、彼の内部の爆発物の核の醸成は、根無しの流人的雑草生命力や間違って前向きにも転がれる南国博多ラテン系の野性の陽気さもせめぎ合う私のそれとは決定的に違って、彼がこの本で語る“東北型時間差負怒病”“東北は日本の植民地”といった本人の意識無意識の底流に厳然として堆積する先祖代々からの拭えない土着的な認識が関与していることも間違いない。幾多の複雑で重層的なコンプレックスを抱えた知的な内的感受性は、出身地よりもさらに東北奥地へ遡る山形での隠遁的生活、アジアの民衆地放浪、詩やフォークとの出会いによる路傍の表現者としてだけでは表現発火はくすぶり、欲求不満が溜まり続けるだけだった。元来は純文学的な批評と詩的な言葉表現の人であった遠藤道郎さんが、パンク・オルタナティブムーブメントという爆発信管プラグとの出会いによって、遠藤ミチロウとザ・スターリンというモンスターへ膨張変異したのだ。


 私が当時のミチロウのライブ体験を通して、いつも痛切にヒリヒリと感じていたのは、文字通り裸一貫で自己と観客とのスターリン共同幻想をぶち壊そうと、傷だらけゴミだらけ臓物や小便や唾の液体だらけになって悪戦苦闘の内にのたうち廻る姿が、彼の企て先導の論理やスキャンダラス逆利用の思惑の是非や価値を越えて、何か“生け贄の儀式”、ライブに集まる若衆の巨大な欲求不満の集積が、一見邪悪で強靭な魔王に見える肉体と魂を業火の饗宴の中に燃やし尽くし、喰らい消費し尽くすかのような“儀式”に見えるという事だった。懲りることなく進んで、自己破壊も辞さずとそこに我が身を捧げ尽くそうとする捨て身のミチロウやシンタロウやメンバーたちのマッドさ、芸能の極の力に驚愕し、畏怖したものだ。


 私は当時、クリエイターは表現したものがすべてで裏に張り付く理屈理論、何故そんなことをするのかという本音は、受け手にとっては表現を狭める事に繋がると信じ、表に出す必要はないし知らなくて良いと決めていたので、この本に書いてあるミチロウの思考や本音は知らなかったし知ろうともしていなかった。今回初めて読ませて貰って、当時の歌詞的な過激な言葉を、音やライブ狂騒分もハイパーミックスして言葉に定着しつくそうする無謀な勢いを感じるエッセイ、彼の思考の本音(本根)を露悪的に挑発的に言語化したエッセイ等々に当時のモンスターのライブや楽曲を追体験させられ、彼がリスペクトする吉本隆明氏との対談、ジャックス早川義夫氏の歌詞の素晴らしさについての熱深い論考、パティ・スミス師について書かれた文章など、極めて素直に真摯な言葉が紡がれている部分で、はじめて、ミチロウならぬ当時の遠藤道郎さんと落ち着いて話を交わしたような気分にさせて貰って、個人的にはそれがとても感慨深かった。この後、再びこの時期の活動成果をさらに強靭にして回帰した孤高なソロ活動を核として、多彩な表現方法を広げ続けた遠藤ミチロウは遠藤道郎に統合し直されて、唯一無比の表現者として地に足つけて闘い続けた。
 

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