PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

消えるホース
不思議な話・2

PR誌「ちくま」9月号よりマーサ・ナカムラさんのエッセイを掲載します。

 中学一年の頃の話である。
 上田先生は、黒板に大きく自動車の絵を描いた。美術教師である先生の手にかかれば、一目でそれが白の軽自動車であることが分かる。運転席のリクライニングは少し倒されている。座席には、人間の身体程もある巨大なホースが背もたれに沿うようにぐったりと寄りかかっている。先端部は後部座席の方まで垂れ下がり、足下はフットスペースに収められている。「ホースの色は灰色」と先生は付け加えた。
 これは、上田先生が十九歳の時に生まれて初めて見た幽霊の絵である。
 当時、先生は茨城県にある国立大学に通う学生だった。仲間達と夜遅くまで遊んだ帰り、田んぼに囲まれた暗い道の脇に、豆電球のように頼りない車内灯を点けた車が一台停まっているのが見えた。車は不自然に震えていた。時折「ブッブッ」という低い音が聞こえた。
 車の脇を通り過ぎる時、何の気なしに窓ガラスから車内を見ると、運転席に座った灰色のホースが「ブッブッ」と音を出し、その度に跳び上がるように震えて車を揺らしているのだった。先生と仲間たちは特に何も言わずにそのまま通り過ぎた。
 その後五分程歩いてから、仲間の一人があの車は変だと言った。もう一度見に行ってみようと道を引き返したが、車は見つからなかった。街灯もほとんどないような道で、もし運転手が戻ってきてドアを閉めるなりエンジンをかけて走り去るなりしたら、必ず気がつくはずだった。先生は幽霊に出会ったことよりも、あんなに奇妙な車内を見たにも拘らず全く恐怖を感じなかったことに驚き、それが学びになったという。
「皆さんがもし幽霊が怖いと思うときがあっても、怖いと思うときには絶対に幽霊は出ないので安心してください」
 こう締めくくって、先生は黒板に描いた絵を消した。私は、幽霊にそんな分別があるだろうかと疑問に思った。

 私が生まれて初めて幽霊を見たのは、それから一年程経った中学三年の時だった。
 明け方四時頃に、けたたましい鳥の鳴き声で目が覚めた。子ども部屋にかかるブラインド越しに、真っ黒な塊が隣家の屋根から私の部屋の窓まで、何度も楕円を描いて戻ってくる。塊が近づいてくるたびに、ブラインドの隙間から黒い影がさした。
 目覚まし時計は朝六時に鳴る。再び寝入ろうとしたが、鳴き声が人の声のようにも聞こえ、無意味な音の連なりを言葉に組み立てようとする脳の働きで眠れない。意味をなさない音を早口で叫ぶ婆のような声だ。
 窓から顔を背けるように寝返りを打つと、天井まで届く巨大なホースが「え」の形で身体を折り畳んでいるところだった。思わず声が出た。プラスチックバケツのような、テカテカとした青色のホースは私の声に驚いたように、霧のように段々薄くなって消えていった。不思議と恐怖は感じず、「消えた」とだけ思って私は再び眠ってしまった。窓の外の声はホースが消えた後もしばらく続いたが、目覚まし時計が鳴る頃にはなくなっていた。
 それから頻繁に幽霊を見るようになった。幽霊を目にするたびに、「怖いと思うときには絶対に幽霊は出ない」という上田先生の声が聞こえた。

PR誌「ちくま」9月号

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