ちくま文庫

ガケ書房という店

『ガケ書房の頃 完全版――そしてホホホ座へ』解説

京都にあった個性的な書店ガケ書房。店主・山下賢二さんの単行本『ガケ書房の頃』(夏葉社)を増補して『ガケ書房の頃 完全版』(ちくま文庫)を刊行しました。解説は、単行本の時の編集者、島田潤一郎さんにお願いしました。山下さんの目を通して見えるものとは?

 ガケ書房は特別な店だ。ほんのりと薄暗く、思いのほか広くて、品揃えがどの店にも似ていなかった。

 どの棚が好きだったかは、ひとによって異なるだろう。レジ前の雑誌の棚が好きだったひともいるはずだし、「特選」といいたくなるような古本棚にもたくさんのファンがついていたはずだ。

 ぼくはマンガの棚とCDの棚が好きだった。その棚を見ていると誰かと話しているような気がしたし、実際、本なりCDなりをレジにもっていくと、山下さんが「おっ、ほんなら、これ知ってますか?」などと言って、その作品に関連する本やCDを教えてくれたりした。

 気さくだけど、馴れ馴れしいわけではなかった。凜としていて、でも人懐っこいユーモアのようなものが店全体に漂っていた。

 はじめは出版社の営業マンとして店に通った。けれど、何度も顔を出し、山下さんと話を続けていくうちに、山下さんが何を考え、どういう思いでこの店をやっているのかを知りたくなった。「書き下ろしで本を書きませんか?」と提案したのは二〇一三年の春のこと。それからしばらくして、ぽつぽつとメールで原稿が届きはじめた。

 どれもぼくの知らないことばかりだった。ガケ書房をやる前の山下さんのことは知らなかったし、店の経営がこんなにもたいへんだということも知らなかった。山下さんはそういう素振りをまったく見せなかったし、「知りませんでしたよ」と面と向って言っても、「そうなんですよ」と言って笑うだけだった。

 完成した『ガケ書房の頃』は、いわゆる「本屋本」とはずいぶんと違う風合いのものになった。書店経営のノウハウのようなものがないわけではないし、業界にたいする提案もいくつかある。けれど、それよりも、青春とか、生き方とか、もっといえば、ブルースとか、そういう言葉のほうが似つかわしかった。

 赤裸々で、予定調和を嫌い、ほかの人がやろうとしないことをやる。この本に書かれているとおり、そうした姿勢こそがガケ書房をつくっただろう。けれど、経営という現実的な壁にぶつかり、また沢山の人が店に関わることによって、そのスピリットは少しずつ変わっていく。ガケ書房はぼくが知るかぎり、ロックで、かっこよくて、いなせな店だった。でも同時に、シャイで、やさしくて、叙情的な店でもあった。そこはすべての人々にとって居心地のいい場所ではなかったかもしれないが、すくなくとも、ぼくのような人間にとっては唯一無二の場所だった。

 この本の結びに、「本屋は勝者のための空間ではなく、敗者のための空間なんじゃないかと思っている。誰でも敗者になったときは、町の本屋へ駆け込んだらいい」と書かれているが、ガケ書房こそ、まさに町の駆け込み寺のような場所だった。

 それは意図して、企画して、つくれる場所ではないだろう。資本があっても、優秀なプランナーがいても、つくることはできない。店とは人そのものであり、経営者が、帳場に立つ人が、その店に通う人たちが、時間をかけて、その魅力をつくっていくものだ。

 大事なのは、どんな店をつくりたいか、よりも、どんな生き方をしてきたのか。どんなものを売りたいか、よりも、どんなものを読み、聴き、そして、どんなものに心を奪われてきたのか。

 そういうことは隠せないし、偽れないし、急造できない。その人から、その店から、どうしようもなく滲み出る。山下さんが多くの人から驚くほどの信頼を得ているのは、山下さんがこれまで本や音楽や映画にたいして、もっといえば、それを扱う場所、つまり本屋さんやCD屋さんや映画館にたいして、真正直に接してきたからだと思う。

 ぼくもまた、山下さんに信頼を寄せている。はじめてお会いしてから十年以上経つが、山下さんがいま何を考え、これから何をしようとしているのか、あるいは、何をおもしろいと思い、何をくだらないと思うのか、そういうことが気になって仕方ない。

 それはお金になるとか、ならないとかよりも、よほど重要なことだ。ぼくはきっと、山下さんの目をとおして、自分がいま、まっとうに生きているかどうかを知りたいのだ。

 山下さんが「これ、いいんすよ」と薦めてくれる本や映画や音楽は、すべてぼくの琴線に触れる。もちろん、だれに薦めるかによって選んでいる作品は異なるのだろうけれど、ぼくが山下さんの推薦で観たり、読んだりした作品はどれも暗い。でもその暗さが、この上なく心地よい。

 その心地よさは、ガケ書房で本やCDを見ていたときの心地よさと繋がっている。ホホホ座でぶらぶらしているときの空気とも繋がっている。

 山下さんから原稿が届き、それを読んでいるときも、この本を編集しているときも、思い返してみれば、ずっと心地よかった。

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