単行本

〈未来〉は俺等の手の中

『未来は予測するものではなく創造するものである』(樋口恭介著)書評

意味や価値のわからない仕事を再生産し続ける「制約事項」を爆破し、「本当のイノベーション」に向かって考える自由を取り戻す――気鋭のSF作家であり、ITコンサルタントである著者が贈る理論と実践の書『未来は予測するものではなく創造するものである』を文筆家の木澤佐登志さんに読み解いていただきました。

〈未来〉は失われている。それも決定的に。「ぼくたちは空飛ぶ車がほしかったのに、手に入ったのは一四〇文字だった」。本書の中で樋口が引いている、ピーター・ティールの言葉。一九六〇年代には星間飛行やタイムトラベルといった〈未来〉のヴィジョンが真剣に検討され、それは遠からず到来するだろうと考えられていた。だが今や、そうした〈未来〉のヴィジョンは寂れたショッピングモールのセール品の山に埋もれ、それを顧みる者はどこにもいない。代わりに、テイラーシステムに組み込まれた〈未来〉は、制約事項によって切り詰められたソフトウェア開発の一部として今も縮小再生産を繰り返している。

「SFプロトタイピング」は、こうした時流に抵抗すべく提示された、とひとまずは言える。樋口によれば、「SFプロトタイピング」とは、複数の未来のうちから「ありうる未来」を幻視するための手法だという。なぜ「単一」ではなく「複数」なのか。さしあたり、ここで言っておくべきは、「SFプロトタイピング」にとって、未来とは「予測」するものではなく「創造」するものとしてある、という点だ。今ある現在から演繹的あるいは帰納法的に〈未来〉を予測する試みは、カオス的に複雑に分岐していく世界を前に、どこかで挫折を余儀なくされるだろう。だが、「SFプロトタイピング」によれば、〈未来〉は無限遠点に位置する接近不可能な対象などではない。〈未来〉とは、異なる視点で見られた現在の名であって、それは既に、現在の中に埋めこまれている。〈未来〉とは潜在性である。未だ現実化されていない「すべて」である。そうであるとするならば、私たちは〈未来〉に対して能動的に働きかけることができるのではないか。そう、要諦となるのは想像力であり創造力(想像力=創造力)なのだ。

 J・G・バラードはどこかで、「フィクションは必ずしも現実を予言するものではなく、現実に参加することで現実を作り出すもの」だと言ったという。同様に、サイバネティック文化研究ユニット(CCRU)は、ハイパースティションという概念によって、フィクションと現実の再帰的な影響関係を問い直した。すなわち、フィクションは現実の中に書き込まれることで、未来の中で自身を現実化させていくのだ。畢竟するに、「SFプロトタイピング」も同種の試みと言えるだろう(もっとも、ハイパースティションにとっては予測と創造の境界は思いのほか曖昧だ。たとえば株価などは、予測が再帰的に株価自身に影響を与える。その意味で、未来の予測は多かれ少なかれ未来の創造をすでに含み込んでいる)。

 なるほど、〈未来〉はもはやどこにも存在しないかもしれない。だが、私たちはそれをみずからの手で創り出すことができる。「いま・ここの現実」とは異なる、「ここではないどこか」を幻視すること。樋口はまた別の箇所で、「SFプロトタイピングとは、目を開けたまま夢を見るための思考ツールである」とも言っている(僕はこの表現がとても好きだ)。そう、重要なのはヴィジョンだ。それも、どうせならできるだけ「ぶっ飛んだ」ヴィジョンが望ましい。本書は私たちに、〈未来〉に対する「ぶっ飛んだ」ヴィジョンを幻視する上で、有用なヒントをいくつも授けてくれるだろう。とにかく何か「どでかいこと」がしてえ、というスピリットを持つことが、潜在性の次元を押し開き、複数の〈未来〉へのアクセスを可能とするのだ。その意味で(?)、本書は樋口恭介流の左派加速主義的な提言、あるいは樋口流『ゼロ・トゥ・ワン』(ピーター・ティール)として読むこともできるだろう。

〈未来〉が行方不明の時代にあって、〈未来への勇気〉を私たちに授けてくる本書は、今こそ繙かれるべきだろう。未来をこの手で選び、掴み取るために。

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