ちくま文庫

本は読む人の中に流れている

『本は読めないものだから心配するな』解説

読書をめぐる思索の書であり、膨大な本のガイドでもあるユニークな一冊、管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』(ちくま文庫)。本書を以前から愛読されていた柴崎友香さんによる解説を公開いたします。

 この本を、何のきっかけで知り、なぜ買ったのか、覚えていない。2015年夏のトークイベントでおすすめの本として話したのははっきりと記憶にあるし、読んだのはその直前ではなくもう少し前だった。
 きっかけは覚えていないが、そこに至るまでの絡みあった道みたいなものがあってこの本に出会い、手に取ったのだと、その実感だけはなぜか強くあり、本を開いて読み始めてみると、なぜそうなのかよくわかる。本と本はつながっているからだ。
 最初のほうですでに、こんなことが書かれている。
「ところが、ああ、われわれの記憶力ほどあてにならないものもない。読書という、記憶がすべてである領域さえ、その土台は鯰の背に乗ったようにぐらぐらと揺れてやまない」
                 
 『本は読めないものだから心配するな』がどういう本かと考えたとき、まず思い浮かぶのは、途切れないことだ。
 一つ一つ、別の場所に書かれた文章だし、開いて確かめれば、そこには数行のブランクがあって次の話へと切り替わっているのだが、読んでいるときはそんな感じはしない。ある話を読んでいるうちに、いつのまにか別の話に移っていて、本を閉じてから読んだことを思い出そうとしたとき、いっそうその感覚が強くなる。
 この本を初めて開いた人がまず気づくことは、左側の上部にページごとに違う言葉が書かれていることだろう。
 それはその開いたところの右のページか左のページのどこかにある言葉だ。
 どこかにある言葉、であって、タイトルやテーマみたいなものではない。
 ずいぶん前、文学者を題材にしたアメリカの映画を見たとき、物語や映画の全体としてはおもしろく受け取ったのだが、文学の扱われかたがしっくりこなかった。久しぶりに再会した師弟関係にある二人が、いつか学んだ本の中にある名文を言い合い、そのやりとりによって文学への思いをあらたにするという部分だ。そんなふうに短く抜き出される言葉は、確かに印象的で、含蓄があって口にすると少し賢くなった気がしたりもする。確かに「名言」だ。だけど、そうしたクイズのようなやりとりをすることは、本を読むことからは関係のないことのように、遠ざかっていくことのように、わたしには思えた。
 今は、携帯電話の小さい画面で文字を読む機会が増え、簡単にそこに文字を記して流すことが容易になっていて、そうした短い「名言」を引用することが好まれる(わたしも、そういった印象のつよい一文に、気軽にいいねを押す。押す、ほどの力もいらない。静電気でそれは可能になる)。むしろ引用のための、引用であることすら忘れる一文。それらの文言は、「隙間時間」と呼ばれたりする、人の都合、それも自分以外の誰かやシステムに切り刻まれて限られた時間の中で効率よく伝達される。そこに収まる短い文章の連なりすら読むのが面倒で、「まとめ」られたりもする。至るところに、わかりやすいだけの、人目を引くための言葉が溢れている。
 本を読むことは、そうではない時間のほうへ入っていくことではないか。
 この本も、引用はしている。むしろ、引用部分の多い本である。しかしそこに引かれた文章は、切り離されたものではない。それが生み出され表されてきた場所への導線であり、思考のための動力としてある。
 そうして、多くの導線が張り巡らされ、と書きかけて、違う、と思う。そんなふうに最初から効果を狙って用意されたのではない、知らない道を歩いてきて景色が見えてくるような、日々の生活の中でふとずいぶん前のことがわかるような、進み方だ(今、考えていて急に、予め用意されるものは「伏線」ではないのではないか、と思った。こんなことを思いついたのも、この本を読んでいるからだ。そこに書いているのではないことを思いつくのはいい本だと、わたしは思う)。
 左のページの上にある言葉は、だから、ひと言でまとまっていなくて、途中だったり、森の中を歩くときの、町を散歩するときの、ちょっとした目印のようなもので、目にとまったら、そこから入っていけるし、覚えておくこともできる。
 どこかのページをぱっと開いて、その目印に引かれて読んでいくと、不思議に今自分が思ったことと呼応するような文章に出会う。
 「一方、文章には瞬間はありえない。言葉が流れの中、持続のうちに展開するものである以上、それは当然だ」
 これは、写真家の森山大道が書いた『犬の記憶』に関する文章で、わたしがさっき考えていたこととはまた別なのだけど、まったく別でもなくてどこかでつながっている。
 そう思ったところで、今度はこんな言葉をわたしは読む。
 「こうしてぼくにとって、世界のすべての書店はおなじひとつの書店の一部であり、ぼくはどんな本屋にでも行く」
  

2021年9月23日更新

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柴崎 友香(しばさき ともか)

柴崎 友香

1973年、大阪生まれ。2000年に第一作『きょうのできごと』を上梓、04年に映画化される。07年に『その街の今は』で芸術選奨文部科学大臣新人賞、織田作之助賞大賞、咲くやこの花賞、10年に『寝ても覚めても』で野間文芸新人賞、14年に「春の庭」で芥川賞を受賞。他の小説作品に『虹色と幸運』『パノララ』『わたしがいなかった街で』『週末カミング』『フルタイムライフ』、エッセイに『よう知らんけど日記』『よそ見津々』などがあり、著書多数。