PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

会話と名前

会話について・3

PR誌「ちくま」10月号より佃良太さんのエッセイを掲載します。

 ふと思い立って、自分の名前を自分で呼んでみる。
 試してみて欲しい。誰もいない空間で、他人に呼び掛けるのと同じ具合に、自分の名前を口にする。
 一言では言い表せないが、何かゾッとしなかっただろうか。自分の口から発せられた名前なのに、それは自分に対する呼び掛けであり、そしてその引き取り手はいないので、空間に、純粋な「名前」だけが浮かび上がっているような気がする。僕が探したところ唯一この方法だけが、役割を排した言葉の原型を体験する方法である。
 その上で、自分の名前は、最も親しみのある身近な言葉であり、これまで他者から呼び掛けられたあらゆるシーンが、名前の中に詰まっていることと思う。その、数えきれない幾万の経験が体内に記憶されていて、その原型をみだらに体感することで、何かゾッとする、畏怖するような感覚に陥るのではないか。
 この、「自分の名前」を最大値として、会話にはあらゆる「名前」が登場する。ある時、僕は誰かと会話をしている自分の声を録音し、復唱してみた。自分の声は気味の悪いもので、しかし、ただ会話の言葉をそのまま復唱するだけでは何か、言葉の真相から遠ざかっているような気がした。人の話し方、癖、接続語の選択や考える時の頷き方は、ただの取り繕いである。そこに人柄は表れるが、言葉の真相は無い。そこで改めて、僕は会話の中に登場する「名前」だけを抜き取って、それを一人声に出してみた。「犬」「糸こんにゃく」「エスカレーター」「水」。すると、いくつかの名前の中に、またゾッとするような響きを見つけた。思い返してみると、そうした名前には自分の中に印象的な記憶があり、その原型を体感することで、脳が反応したのだ。
 人は、取り繕いの会話の中で、唯一、「名前」の畏怖からは逃れられない。「言霊」という言葉はスピリチュアルな香りがしてあまり好きではないが、「名前」を呼ぶ行為。その音感から引き出される幾万の記憶。その記憶への畏れが、表情や態度となって立ちあらわれ、他者や自分自身への具体的な影響に繋がっていくのではないか。第一回エッセイ、「会話で交わされるもの」で交わされていた「何か」の真相も、ここにあるのではないかと思っている。
 そしてこれは、文章の中に登場する「名前」には立ちあらわれないものだろう。もともとが、具体を抽象化しているのが言葉だ。言葉を文字に書く時、さらに抽象度は高まる。記憶との結びつきが弱くなる。人は会話の中でだけ、実際には対面していない過去の自分と対面し、名前を通して呼び掛け合っている。

 僕は今、脚本家という仕事をしている。
 まだまだ駆け出しの身で、今のところ全く勉強不足だが、原稿の上にある会話と実際の会話の乖離くらいは、手にとるようにわかる。原稿の上にある会話は思考を介在したものであり、実際の会話はもっとみだらで、生身で、心と体に直通したものだ。
 だから僕は、会話劇を書く時、その中に出てくる名前だけを声に出してみる。言葉の真相の響きを辿っていく。そうして、思考と原型の間を行き来しながら、これからも会話劇の深みを追求していきたいと思う。

PR誌「ちくま」10月号