PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

フリードリヒの絵
忘れられない絵・2

PR誌「ちくま」3月号より丹治匠さんのエッセイを掲載します。

 カスパー・ダーヴィト・フリードリヒという画家がいる。二百年ほど前のドイツで活躍した人で、日本の美術の教科書にも代表作『氷の海』が掲載されていたことを覚えている。彼はたくさんの風景画を残していて、それは「荘厳な」とか「おごそかな」と形容したくなるようなものなのだが、画中、手前下の方にその風景を見る観賞者を小さく描き入れることが多い。その時代の男や女が絵を見る者に背中を向けて奥に広がる風景を観賞しているのだ。それらの絵を見ると僕はいつも不思議な感覚を覚える。というのも、画中の人物たちが見ている視線の先には風光明媚な景色があるわけではなくて、ただ遠くまで厳しい海が広がっていたり、見る限りずっと雲の立ち込めた空があったりするだけなのだ。絵を見る者の目は画中の人物たちの視線を追って始めは画面奥の風景へと誘われるが、そこには言いようのない空間しかなく、だからもう一度人物たちの方へ視線を戻すことになる。しかし彼らもやはり主題になるような特徴は持っていないので、再度風景の方へ目をやる。僕はいつも、そんな宙吊り状態(どこを中心に鑑賞していいのか分からない)になってそれらの絵を見る。そして自分の絵の描き方や考え方も、この宙吊り状態にどこか似ているなと思う。
 美術予備校時代に油絵の課題で静物を描いた時のことだ。テーブルに白い布が掛けられ、その上に透明なアクリルボックスが三つか四つ重なって置かれていた。僕は二つのアクリルボックスの間の空間を描きたいと思って構図を取り、鮮やかなオレンジ色を使ってまるでその空間にたくさんの層があるように執拗に表現した。自分でも割と上手くいったなと思っていたのだが、評価は芳しくなかった。講師たちは僕の絵について、「空間だけを描こうとするのはナンセンスだ」というふうに評した。僕自身は何もない空間に何かが見えるような「期待」のようなものを絵で表現しようとしたのだったが、人はそのようには絵を見ないのだと初めて知った。どうも自分は物と物との関係とか絵の成り立ち自体に興味があるらしい。逆に大多数の人は絵に描かれた具体的な物を大切にするのだと知った。今から考えれば、中心の希薄な絵を描いてしまうことは悪いわけではなくて、これはこれで個性だとも思っているし、現在、僕がアニメーションの背景を生業にしていることもそんな気質が関係しているだろう。なにせ、アニメーションの背景は、キャラが動くだろうことを想定しながらその舞台だけを描いていく仕事なのだ。
 後に勉強して、フリードリヒは自分の絵の中に、宗教的、神秘主義的な崇高さや静寂感を表現していたと後から知ったのだが、僕にとってはなんとなく自分の絵が持つ長所や短所を想起させられる不思議な親近感を纏った絵だった。彼の絵を見ながら次第にこう思えてきたものだ。画中の人物たちは何もない空間をじっと見つめながらそこに佇んで、まだ何者でもない僕が何者かになれることをじっと待ってくれていると。なぜか画中の彼らがそうやって自分を見守ってくれているように思えたものだ。

PR誌「ちくま」3月号

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