単行本

女三代が受け継ぐ台北の味
洪愛珠『オールド台湾食卓記』書評

2021年の台湾で各章を受賞し、ベストセラーとなった洪愛珠『オールド台湾食卓記』(原題:老派少女購物路線)の日本語版が、2022年10月末に刊行されました。 話題の本書について、作者の洪愛珠さんとも親交を持ち、『美麗島紀行』など台湾についての著書もある乃南アサさんにエッセイを寄稿していただきました。(PR誌「ちくま」11月号より転載)。

 白い肌のぷっくりした小さな女の子が、祖母に手を引かれて市場を歩いていた頃から、その五感に刻まれていった様々な空気、匂い、音、色、味、感触。それらは少女の身体の一部となり、成長と共に豊かな感性と価値観が加わる。洪愛珠さんによる本作は、文章の端々にささやかな哲学が添えられている。それは彼女が歩んできた人生の証であり、決して押しつけがましくない、静かなため息のようなものでもある。

 2016年1月、台湾で総統選挙が行われた。前回2012年の総統選も取材していた私は、今回は「普通の台湾家庭では、この選挙をどのように受け止めるか」を見てみたいという希望を抱いていた。その希望を快く受け入れてくれたのが台湾で親しくなったある青年、それが洪愛珠さんの弟だ。

 当日、彼の自宅まで案内されて驚いた。何の情報も持たなかった私は、青年の家をただ漠然と、台北に多い集合住宅の一つだろうと勝手に想像していたのだ。ところが案内されたのは同じ敷地内に大きな家がいくつも建ち、自営の工場らしきものが隣接している、豪壮な大邸宅だった。広々とした食堂兼居間には重厚な家具が配されていて、窓際の四角いテーブルで、私たちはまず「おやつ」を出していただいた。いくつか並んだ器の中で、特に真っ白いピーナツ汁粉を口にしたときの驚きと感動を私は忘れない。それまで台湾で、ずい分と色々な料理を口にしてきたが、これほど白く、優しい甘さで、そして滋味のあるピーナツ汁粉は初めてだった。正直なところ、それだけで満腹になりそうだったほどだ。

 その後は近所の投票所へ出向いて投開票の様子を見学し、夕方再び青年の家に戻った。すると今度は大きな丸テーブルに目を見張るほどのご馳走が並び始めた。腕を振るって下さっているのは青年の母上だ。長く大病を患っておられることは聞いていたが、私たちに笑顔を向けて下さった。そして、その母から片時も離れることなく立ち働いていたのが洪愛珠さんだった。二人はほとんど厨房から出てくることなく、ひたすら私たちのためのご馳走を作り続けて下さっていた。

 本書にも書かれている通り、その日のメニューはどれも手の込んだものばかりで、アワビにせよナマコ、スルメ、クラゲにせよ、下ごしらえからして大変なものばかりだった。どれも上質な食材を、時間をかけて調理していただいたことに私は深く感謝したのと共に、その味付けの上品さにやはり驚いた。食器も趣味がよいものばかりだ。テレビでは選挙特番をやっていて、民進党が圧勝の気配を見せていた。洪愛珠さんは時々、厨房から顔を出してテレビを眺め、また厨房に戻った。こちらはテレビとご馳走とで気もそぞろだ。何年も台湾を旅しながら、あれほど洗練された食事に接したことは、かつてなかった。

 あの日のことを思い出しながら、今、洪愛珠さんの文章に触れていると、彼女がどんな思いで母のそばに立ち続けていたか、残された時間をどれほど慈しみ、切なさと哀しみと共に、一方では弟のために精一杯に外国からの客をもてなそうとしていたかと、その複雑な心中を思い、胸に迫るものがある。

 次に私たちが洪さんの家を訪ねたのは、母上の葬儀の日だった。洪さんと弟とは肩を寄せ合い、身も世もないほど涙にくれていた。洪さんの母への思いはおよそ断ちがたく、さらに「洪愛珠」という人間を形作った血脈の中で、その立ち位置をよほど考え続けてきたのだろうということが、本書を読むとよく分かる。とりとめのない散文のようでありながら、その全編には、彼女の母の存在が、どこに行き、何をしていようと、シルクシフォンのように彼女を柔らかく包み込んでいる。読者もそんな彼女の思いを感じながら、紹介された台北の店や小さな街の食堂を訪れてみたいという気持ちになるだろう。

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