単行本

綿野恵太『「逆張り」の研究』よりまえがきを全文公開
「逆張りくんによる「逆張り」の研究」

常識とは反対のありえない主張をする「逆張り」――元来は投資用語であった言葉が、昨今では悪口や罵倒、あるいは自虐的な言葉として用いられるようになりました。この言葉をめぐる「社会評論」であり「当事者研究」ともいうべき一冊、綿野恵太『「逆張り」の研究』が本日発売となりました。『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(紀伊國屋じんぶん大賞2020第2位)『みんな政治でバカになる』が大きな話題を呼んだ批評家が満を持して贈る2年ぶりの新著です。

 二〇二二年四月、朝日新聞の記者からメールが届いた。「「逆張り」について三人の識者に意見を聞いています。取材させてほしい」というものだった。「逆張り」について記者はこんなふうに説明していた。

 もともと「逆張り」は相場の流れに逆らって売買する投資手法のことだ。たとえば、株式市場で株価が低いときに買って、高いときに売る。だが、最近はインターネットでよく見られる「良識を嘲笑うような意見や、常識的にはありえない主張」を指す言葉として使われている。「つきましては、綿野さんに「逆張り」だとレッテルを貼る側にも問題はないのか、というテーマで取材させてほしい」という依頼だった。

 まず思ったのは、「あれ? これ、ぼくが逆張りする側の人間だと思われている?」ということだった。「逆張りとレッテルを貼る側」の問題点を指摘するのだから、逆張りする側なのだろう。逆張りというスラングがあることは知っていたのだが、正直なところ、自分のことだと思っていなかったので、けっこうショックだった。

 朝日新聞だし、記事全体の方向性としては逆張りに否定的な感じになる、と予測がついた。とはいえ、インタビューを受ける三人全員が「逆張り」を否定すると、それはそれで記事がかたよってしまう。ぼくには「逆張り」肯定派として取材がきたわけだから、ほかの二人はおそらく「逆張り」否定派だろう。つまり、「逆張り」を特集した記事の「逆張り」担当として呼ばれたわけか……。

 逆張りについての記事は絶対に炎上する、と思った。新聞記事がネットに転載されると、どうも扇情的な見出しがつけられる。いまの時代、文章を書く仕事には炎上がつきものだ。けれども、新聞の場合、取材した記事の内容を事前にチェックさせてもらえないこともある。自分のコントロールできないところで、炎上して叩かれたらいややなあ……と思って、申し訳ないが取材をお断りしたのだった。実際、その逆張り特集の記事が公開されると、やはりネットで話題になっていた。

 しかし、取材を断ったあとも、モヤモヤしたものが残り続けた。『「差別はいけない」とみんな言うけれど。』や『みんな政治でバカになる』といった奇を衒ったタイトルを付けるのが、よくないのかなあ、とまず思った。ただ、お読みになった読者はおわかりだと思うが、どちらの本も「常識」的なことしか書いていない。むしろ、常識っぽいことしか書けないのが、最近の仕事の悩みだったので、「逆張り」する側の人間だと思われているという、そのイメージのギャップにあらためてびっくりした。

 そういえば、むかしチェッカーズの『ギザギザハートの子守唄』の替え歌をして、「ちっちゃな頃から逆張りで、15で批評と呼ばれたよ」とツイッターに投稿したところ、哲学者の千葉雅也さんが面白がってくれたことがあった。たまたま記者がそれを目にして、ぼくに取材が来たのかもしれない……などなどぼくのところに依頼が来た理由をモヤモヤと考え続けていた。

 この一部始終をブログに書いたところ、今度は知り合いの編集者から「逆張りについて本を書きませんか」というメールが来たのだった。「また逆張りかよ」と正直うんざりした。しかし、そのとき突然思い出したのだ。一〇年前に自分が「逆張りくん」とからかわれたことを。

 ぼくは太田出版という出版社で編集者として働いていた。その元社長だった高瀬幸途さんから「きみは逆張りくんだねえ」とからかわれたのである(高瀬さんは二〇一九年に亡くなられた)。ぼくはまだ働き始めたばかりで、新宿荒木町のジンギスカン屋で開いてもらった歓迎会の席だった。高校生のころから柄谷行人や蓮實重彥の批評を読んで、修士論文では一九六八年の学生運動における聖書学者の田川建三について調べました……と、みずからの思想遍歴を話したところ、高瀬さんに「逆張りくんだねえ」と言われたのである。

 高瀬さんはいわゆる全共闘世代だった。一九六八年の学生運動に参加していて、ある「過激派」で活動していた。そのことは公表されていたし、ぼくも知っていた。だから、「一九六八年の学生運動に興味があるなんて、いまどきめずらしい若者だね」という意味で、親しみをこめつつ、からかったのだ、とぼくは思っていた。「逆張りくん」と呼ばれて、いやな気持ちはしなかった。というか、ちょっと嬉しい感じもあった。いまみたいに「逆張り」に悪いイメージはなかったのだ。

 このことを思い出して、「逆張り」について調べてみようかな、と興味が湧いてきた。なぜ最初の取材依頼のときに思い出さなかったのか。自分でも不思議なのだけど、悪い意味の「逆張り」呼ばわりされたショックが大きかったせいかもしれない。

 さっきの朝日新聞の記事では、三省堂国語辞典の編集にたずさわる飯間浩明さんに取材している。飯間さんによれば、二〇一四年に刊行した辞典(第七版)で「逆張り」が初めて収録されたという。「だれも価値をみとめないことを、〔いい機会だと思って〕あえてすること」と説明されている。ぼくが太田出版で働き始めたのは二〇一三年だから、時期的に一致する。つまり、この一〇年で「逆張り」のイメージがどんどん悪くなったわけだ。

 朝日新聞の記者は「逆張り」について「良識を嘲笑うような意見や、常識的にはありえない主張」と説明していた。インターネットでは確かにそんなふうに使われている。たとえば、「逆張り冷笑おじさん」というネットスラングがある。政治運動に否定的で、デモに参加する人々を嘲笑する中年男性のことだ。マイノリティ運動や人権思想を冷笑する「ネトウヨ」(ネット右翼)も「逆張り」と呼ばれる。

 だが、どうも当てはまらないケースもある。「逆張りオタク」という言い方がある。たとえば、『鬼滅の刃』など大ヒットした作品をつまらないと否定したり、「クソゲー」や「クソアニメ」といった一般的な評価の低い作品を面白がったりするオタクのことを指すらしい。つまり、流行に乗らない態度も「逆張り」と言われるようなのだ。

 さらにはこんな例もある。政権に反対する野党のことを「逆張り野党」と呼ぶ人がいる。常識や流行も関係ない。非難すること、異議を唱えることが「逆張り」呼ばわりされている。なかには「朝日新聞は逆張りしかしない」と言っている「ネトウヨ」っぽい人もいて、さすがにこれはちょっと笑ってしまった。

 逆張りは基本的に悪口や罵倒として使われている。もしくは自分をネタにするときの自虐的な言葉となっている。マイナスのイメージは共通している。とはいえ、そもそもスラングなので、はっきりした定義があるわけではない。逆張りを考えるためには、実際に使われている言葉を見ていくしかない。

 そのほかにも「逆張り炎上屋」「逆張り商売」「逆張り芸人」「逆張りは空気が読めない」「逆張りは厨二病」「逆張りのしすぎで一線を超えてしまう」「〇〇の逆張りをしておけば正解」……などなどネットで見かけた「逆張り」のついた言葉を片っ端から集めてみた。しかし、これだけではどうも材料が足りない気がしていた。

 それでいろいろ考えてみた。ぼくは「逆張り」特集の記事の「逆張り」担当に指名されるぐらいだから、世間では「逆張り」とイメージされている。自覚していないが、本当に「逆張り」なのかもしれない。だったら、ぼくの考えをそのまま書けば「逆張り」をする人間の興味深い生態が明らかになるはずだ。

 また、「逆張り」は悪口や罵倒として用いられている。だとしたら、ぼくがこれまで頂戴した悪口や罵倒も「逆張り」を考える大きなヒントになるかもしれない。実際、ぼくの文章を一文字も読んでいない人に「冷笑主義(シニシズム)」と言われたことがある。記憶のある範囲でざっと書き出してみる。

「冷笑主義」
「半笑いで書いている」
「目の前の問題からメタレベルに逃げている」
「どっちもどっち論」
「相対主義」
「安全圏からものを言っている」
「傍観者」
「若くして老いた怠惰な知性」
「若き老害」
「社会で、街で、路上で、実際に起こっていることを、知るべき」
「観念を弄ぶだけの空虚な本」
「言葉遊び」
「読者を勇気付けない」
「90年代以降の日本の思想・批評の界隈が陥ったダメポモ(ダメなポストモダン)」
「権力への抵抗を放棄した体たらくな批評家」
「本のタイトルが釣り」
「目立ちたいだけ」
「嫉妬しているから批判している」

 たしかにいろいろヒントがある。「冷笑主義」は一番わかりやすい。「逆張り冷笑おじさん」とセットで使われる。では、逆張りと冷笑主義はどこが共通して、どこがちがうのか。「どっちもどっち論」「安全圏からものを言っている」「傍観者」なども、政治運動に熱心なリベラルがネットでよく使う言葉だ。また「批評」や「ポストモダン」思想はたしかに逆張り的なところがあるし、逆張りは「承認欲求」のため、「目立ちたい」せいだともよく言われる。

 そして、なにより悪口や罵倒には自分が否定したい価値観が込められるものだ。逆張りについて考えることは、その反対に、逆張りを嫌うひとたちの大切な価値観を考えることでもある。逆張りが急速に嫌われた時代の変化も振り返ることができる。

 さて、お恥ずかしながら、同業の書き手たちにくらべて、ぼくにはあまり思考の瞬発力がない。なので、「逆張りとは〇〇である」とわかりやすく断言できない。逆張りをする人間にも、逆張りを嫌う人間にも言い分がある。それぞれの主張に対して、ぼく自身が「わかる」ところ、「わからない」ところを確かめながら、書き進めた。読者のみなさんも、ぼくの文章をそのまま鵜吞みにせずに、いろいろと考えながら、読み進めてほしい。

 では、「逆張り」の研究をはじめよう。といっても、論文なんかではなくてエッセイだけど。本書は、逆張りくんとからかわれ、逆張り特集の逆張り担当に指名された、逆張り当事者による逆張りの研究である。逆張りの、逆張りによる、逆張りのための研究である。

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