ちくま文庫

虫明亜呂無ふたたび

PR誌「ちくま」(2023年8月号)に掲載された、虫明亜呂無『むしろ幻想が明快なのである――虫明亜呂無レトロスペクティブ』(ちくま文庫、7月刊)についての編者・高崎俊夫氏によるエッセイを公開いたします。なお、こちらの文章に一部誤りがございました。私どもの不手際でご迷惑をおかけし誠に申し訳ございません。謹んでお詫びし、訂正致します。当web版では修正し、文章の最後に訂正箇所を掲載しておりますので、ご確認いただけますと幸いです。

 虫明亜呂無がいかに常軌を逸したスポーツ熱愛者であったかを示すエピソードがある。ひとつは彼が仲人を務めた小林信彦の結婚式で、仲人の身でありながら、途中で野球放送を聞きに消えてしまい、司会の永六輔が「あ、あ、帰ってきた。虫明さん、今、なん対なんですか?」と尋ねると、「ええ、3対3でございます」と平然と答え、永六輔が「ヘンな仲人!」と愕然とした話。もうひとつは自分の結婚式の日に、ラグビーの早慶戦を見に行って、遅刻してしまった話。どちらもほんとうで、一つ目は最近、小林信彦さん本人から伺ったばかりだし、二つ目も奥様の敏子さんから、じかに聞いたから間違いない。

 私がこの不思議な響きを持つ作家の名前を初めて知ったのは、1971年、当時、もっとも活気に満ち溢れていたリトルマガジン『話の特集』に掲載された「アメリカの野球」に始まる連作である。なかでも伝説の天才ランナー、人見絹枝について書かれた小説ともエッセイともつかぬ美しい散文には深い感銘を受けた。この連載は1979年に話の特集より「スポーツ恋愛小説」と銘打たれ、『ロマンチック街道』という単行本として刊行された。

 私は当然ながら、熱烈な虫明ファンとなり、古本屋をめぐっては、直木賞候補となった短篇集『シャガールの馬』(講談社)、『クラナッハの絵――夢のなかの女性たちへ』(北洋社)、『時さえ忘れて』(グラフ社)などのエッセイ集を買い求めたが、幻の処女作『スポーツへの誘惑――現代人にとってスポーツとは何か』(珊瑚書房)だけは見つけることができなかった。

 それでも、当時、「スポーツニッポン」紙で連載が始まった傑作コラム「うえんずでい・らぶ」は毎週、愛読し、できうる限りスクラップしておいた。コラムのテーマは、当時、話題の映画、演劇、小説、歌謡曲、テレビ番組と多岐にわたっていたが、今、思えば、スポーツ新聞の片隅にこんなハイレベルのカルチャー・エッセイが数年間にもわたって連載されていたこと自体、空前絶後ではないだろうか。

 1980年代に入って、虫明亜呂無の名前を雑誌で見かける機会が少なくなり、脳梗塞で倒れたという噂が耳に入ってきた。

 そして1991年、筑摩書房から玉木正之の責任編集により「虫明亜呂無の本」全3巻の刊行が始まったが、その最初の巻が出た直後に、虫明亜呂無が肺炎のため急逝したことを知った。享年67。私は哀悼の思いで『虫明亜呂無の本・2 野を駈ける光』を手に取ったが、私が長い間、探していた『スポーツへの誘惑』のエッセイが幾つか収められていて、嬉しかった。

 ただ、この本は従来のスポーツ評論の枠にとどまらない虫明亜呂無の魅力を十分に提示していたが、私がかつて愛読していた映画評論や、とくに「うえんずでい・らぶ」のコラムが入っていないことが私にとってはやや残念であった。

 そこで、私は2009・10年に、清流出版から虫明亜呂無のエッセイ集『女の足指と電話機――回想の女優たち』『仮面の女と愛の輪廻』、短篇集『パスキンの女たち』を続けて上梓して世に問うことにした。とくに二冊のエッセイ集は好評を博し、スポーツ以外の幅広いテーマをめぐって魅惑的な上質の文章を紡いだ虫明亜呂無というポップな文学者の全貌が明らかになったと自負している。

 2016年には『女の足指と電話機』が中公文庫で復刊され、ふたたび虫明亜呂無が注目されつつある。そこで、私は文庫オリジナルで虫明亜呂無の集大成、ベストアルバムをつくってみようと考えた。念頭にあったのは、単行本未収録のエッセイを数多く収録すること、そしてキーワードは〈映画批評家としての虫明亜呂無〉である。

 虫明亜呂無は『思想の科学』の盟友であった佐藤忠男が編集長を務めていた時代の『映画評論』で健筆をふるっている。今回、大きな目玉は、巨匠内田吐夢の名作『宮本武蔵 一乗寺の決斗』と『飢餓海峡』、および当時、東宝の鬼才と呼ばれた和田嘉訓の鮮烈なデビュー作『自動車泥棒』の撮影ルポである。いずれも深い洞察に満ちた渾身のルポルタージュで、映画批評家としての虫明亜呂無の凄みを堪能できるはずである。今は虫明亜呂無の魅力が再発見されるのを願うばかりである。

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PR誌「ちくま」2023年8月号のエッセイ「虫明亜呂無ふたたび」(高崎俊夫編)におきまして、以下の誤りがございました。心からお詫びし、訂正申し上げます。

③ P11上段、4行目 「編者がスポーツ・ジャーナリストであったために」。

編者の玉木正之氏はスポーツ・ジャーナリストではなく、スポーツライターもしくはスポーツ文化評論家が正しい肩書となります。

④ P11 上段5行目「内容が主にスポーツをテーマにした評論、小説に絞られており」。

『虫明亜呂無の本・2 野を駈ける光』に「『同棲時代』の魅力」「男と女の恋愛は完全に賭けである」「美しきものへの憧憬」「森の騎士 ベートーヴェンとワーグナーのなかの心象風景」「ヴェルディの『オテロ』」などが入っていることからもわかる通り、玉木正之氏が編集した本の内容は、「スポーツをテーマにした評論、小説に絞られて」おりません。

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