ちくま新書

『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』解説

ナンシー・フレイザー『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』(ちくま新書)より、同書に収録されている白井聡さんによる解説を公開します。本書が「資本主義社会の本質を理解するための第一級の文献」と言えるのはなぜなのか。「共喰い資本主義」の実態を暴く世界的政治学者の話題作を読み解きます。ぜひご一読ください。

 まず第一に言わねばならないのは、ナンシー・フレイザーによる本書は近代資本主義社会、その本質を理解する上で、きわめて重要な、第一級の文献であることだ。筆者はこのことを深く確信する。
 筆者自身のものを含め、近現代の資本主義の危機、いやもっと正確に言えば、危機を内在的にはらんでいる資本主義の構造を分析する言説は国内外に多数ある。そのなかでも本書は、資本主義社会の矛盾の全体性、全般性を、その歴史的変遷、転位を含めて鮮やかに図式化した点において、際立っている。現代の課題を考察する上で、最良の文献の地位を間違いなく占めることになるであろう。
 本書でフレイザーは、「資本主義」という言葉の意味を拡張して理解すべきであると提案する。それは単に経済的システムを指すものではないのだ、と。それは、社会全般の特定の在り方を示しており、「制度化された社会秩序」(43頁)であるという。こうした観方は、カール・マルクスによる資本主義分析から多かれ少なかれ影響を受けた人文諸科学においては常識的なものだ。資本主義は、経済的なものであるだけでなく、社会全般の在り方を規定し、人間の意識・思考・欲望といった人間性そのものにも影響を与えることは、自明の事柄とされてきた。にもかかわらず、標準的な経済学は、資本主義を純粋に経済システムと見なし、あまつさえそれを「市場経済」と同一視してきた。
 そのような愚昧に終止符を打たねばならない。なぜなら、本書で分析の俎上に上げられる人種差別・再生産の危機・環境危機・民主主義の危機といった現代において深刻化し続ける危機のすべては、資本主義の内在的メカニズム、すなわち無限の資本蓄積をめざすという宿命的な衝動に究極的には根差すものであるからである。より具体的に言えば、世界中(とりわけ欧米)で噴出する人種間の軋轢、壊滅的な少子化の進行、地球温暖化、ポピュリズムの流行等々といった危機的現象は、近代資本主義システムの発展の帰結にほかならない。したがって、これらの危機に対する個別的対処は、必然的に対症療法的なものにすぎなくなる。
 それでは、これらの危機と資本主義システムとの内在的なつながりをフレイザーは、どのようにとらえているのだろうか。経済システムとしての資本主義は、実は資本主義システムが自ら生み出すことができず、消費してしまえば補塡することもできないものに、全面的に依存している。それをフレイザーは、資本主義的な「生産を成り立たせる可能性の条件」(20頁)と呼び、価値増殖を目的とする資本主義的経済活動とその外部にありながらそれを支える「可能性の条件」をひっくるめて「制度化された社会秩序」と見なし、その全体を「資本主義社会」と定義する。
「可能性の条件」の具体的内容は次の四つのものであるとされる。⑴すなわち、「搾取」ですらなく「収奪」される、その多くがグローバルサウスに住む人々。また、周知のように、そうした人々が、「北半球」の国々で、その国の国民の誰も従事しようとしない低賃金で劣悪な仕事に従事することも多い。いずれの場合でも、極端な低賃金や危険が「容認される/容認されない」の線引きは、人種差別的なものと言うほかない。⑵次に、市場に労働力を供給するというきわめて重大な役割を担っているにもかかわらず、その対価を不十分にしか、あるいはまったく支払われない再生産労働に従事する人々。この立場を割り振られてきたのは圧倒的に女性が多いことは、フェミニズムが明らかにしてきた通りだ。⑶そして、自然環境である。自然は、資本の価値増殖運動のためにそこから天然資源を容赦なく掘り出す対象であると同時に、経済活動によって生じた大量の廃物を捨てる場所となる。⑷最後に、国家・公的権力である。標準的経済学の想定はそれを捨象してしまうのだが、資本主義的経済活動は公的権力による治安の維持、法の執行、そして制度の整備なしには成り立ち得ない。言い換えれば、資本主義経済は自律的ではない。
 この四つの「生産を成り立たせる可能性の条件」を、資本主義のシステムは自前で揃えることができない。言い換えれば、資本主義はこれらの条件の上で、これらの条件から一方的な収奪を行なうことによってのみ、価値増殖の運動を続けることができるのだ。つまり、資本主義社会は「つねに私たちの存在の基盤を喰い荒ら」している(11頁)。
 ここにこそ矛盾がある。かつて日本を代表するマルクス研究家であった宇野弘藏は、「労働力の商品化の無理」に資本主義の矛盾の核心を見定めた。「無理」だというのは、「労働力の商品化」こそ資本主義の要諦であるにもかかわらず、労働力(つまりは人間そのもの)を資本主義システムは生産することができないからである。
 フレイザーの議論は、宇野を想起させる視角を提示しつつ、資本主義システムが自ら生産できないまま全面的に依存しているもの、すなわち資本主義が喰い荒らしているものを、人間労働力だけでなく上記四つの領域に広く見出してゆく。それぞれの領域で、資本主義システムは、それらの領域に存在し機能してきたものを際限のない価値増殖運動のための原料にしてしまうことによって、荒廃させてしまう。すなわち、システム自らを可能にするものを荒廃させてしまう。その挙句、「私たちの存在の基盤」は侵蝕され、とうとう持続不可能な状況に突入したのではないか。今日の政治的、社会的、また生態学的な危機の深刻さは、このことの証左であるとフレイザーは示唆する。
 マルクスがその発端を与え、ローザ・ルクセンブルクによって受け継がれ、現代においてはデヴィッド・ハーヴェイなどと軌を一にする右のような「資本主義経済」と「資本主義経済の構成的外部」との関係に対する認識は、フレイザーによって集大成され、本書において十全な体系化に達したと見ることができる。筆者もまた、マルクスの「包摂」(subsumption)や「物質代謝」(metabolism)の概念に着目して、資本主義システムによる「生」全体(人間はもちろん、すべての生きとし生けるもの)の吞み込み、あらゆる存在の価値増殖運動への動員、それがもたらす危機について議論してきた(『武器としての「資本論」』、『マルクス――生を吞み込む資本主義』)。今回フレイザーの議論に接してあらためて痛感したのは、資本主義システムがシステムの外部を内部化し、収奪することによって発展してきたことの重要性だった。この発展ならびに危機の拡大の軌道を、植民地主義、男女不平等、環境破壊、国家権力の機能不全といった領域に分節化して明快に論じるフレイザーの手際の鮮やかさには目を瞠るものがある。
 本書の構成は、概論的な第1章において根本的視角を提示し、その後の第2〜5章がそれぞれ、「人種差別に依拠した収奪」、「再生産」、「自然環境」、「国家権力」のテーマに充てられている。
 そこで注目すべきは、それぞれの領域で、資本主義経済と「生産を成り立たせる可能性の条件」との矛盾が資本蓄積体制の転換を複数回にわたってもたらし、近代資本主義の歴史における「段階」を画してきた、とフレイザーが論じていることだ。その時代区分は、「16-18世紀の重商資本主義体制、19世紀のリベラルな植民地資本主義体制、20世紀中頃の国家管理型資本主義体制、そして現代の金融資本主義体制である」(108頁)と整理される。こうした「段階論」的歴史観も、宇野弘藏の理論と一脈通じるところがある。
 フレイザーの議論の出色の点は、それぞれの段階の資本蓄積体制における内的矛盾や階級闘争として現れる内的葛藤が、次の段階への移行をもたらし、段階によって従属/支配のライン、すなわち誰が誰を支配するのかという境界が変化する、という論理を提示しているところにある。
 例えば、第2章で取り上げられる人種差別の場合、まず16-18世紀の重商主義資本主義の時代は、マルクスの言う「本源的蓄積」の時代である。それは等価交換に基づく「搾取」以前のむき出しの「収奪」の時代であった。それは中核地域では囲い込み(エンクロージャー)として行なわれ、周辺地域(植民地)では人間そのもの、土地、鉱物資源に対する苛烈な収奪として現れた。このとき、ある意味で人種差別は薄かった。なぜなら、中核でも周辺でも、持たざる者は皆暴力的に収奪されたからである。
 だが、19世紀になると、中核地域では白人男性労働者が階級的な政治闘争を通じて市民的権利を勝ち取ってゆく一方、周辺地域では依然として収奪が続く。フレイザーいわく、白人至上主義的な身分秩序が生じるのはこの時点においてなのだ、という。すなわち、「二重の意味で自由」(マルクス)であり契約に基づいて自らの労働力を売る市民=労働者=白人男性と、収奪可能な被支配民へと「人種」が分かれる。そして、それは「搾取」と「収奪」の分化でもある。前者は等価交換において剰余価値を生産し搾取されるが、後者は無権利状態を前提として収奪され続ける。だが、この分離は表層にすぎず、実は搾取と収奪は混然一体化しているのだ。というのも、中核地域における剰余価値、すなわち労働者の低賃金と安価な商品の大量生産が可能になるためには、周辺地域から安価な食料、衣服、原材料、エネルギー源を収奪しなければならないからである。
 20世紀に入ると、第二次世界大戦以後、国家管理型資本主義(フォーディズム)の資本蓄積体制が一般化するが、中核地域では、福祉国家のもと市民=労働者の権利が強化された一方で、差別対象となった人種は市民権を奪われたまま、「最も汚く最も卑しい仕事をあてがわれた」(84頁)、つまり搾取されると同時に収奪された。他方、周辺地域では、脱植民地化が果たされたにもかかわらず、南北間の不等価交換により、中核地域による収奪が止むことはなかった。
 そして、現在の金融資本主義体制においては、債務を通じた「搾取と収奪のハイブリッド型」(87頁)が登場した、と言う。周辺地域の旧植民地国家は国際金融機関に対する債務によって住民のほぼ全員が搾取されつつ収奪される一方、中核地域でも労働者の実質賃金は低下し、法人税率が引き下げられるなかで、公共サービスは低下してきた。つまり、中核地域の市民=労働者も搾取と収奪を同時に受けるようになる。そのような状況で消費者が消費を続けるために、負債が膨れ上がってゆくが、ここでもリーマン・ショック(2007-2008年)を引き起こしたサブプライムローンにおいて典型的に観察されたように、最も略奪的な金融の標的になるのは有色人種である。
 以上の過程を追ってみると、やり切れない気持ちにならざるを得ない。誰か(例えば、白人男性労働者)の権利獲得や富裕化は、別の誰か(有色人種や女性、あるいは自然)に対する収奪によって可能になった、という事実が突きつけられるからである。つまり、資本主義システムが蓄積体制を変化させるとき、その矛盾は解消されるのではなく、別の位相に転位される、言い換えれば、矛盾のツケを他の誰かに負わせる、あるいは負わせ方を変えるにすぎないことがわかる。そしてその果てのいま、金融資本主義体制においては、ごく一部の富裕層以外の全員が搾取されると同時に収奪される「負け組」となるゲームが演じられているのである。フレイザーは、こうした矛盾の転位のメカニズムとその歴史を、「人種差別」、「再生産」、「自然環境」、「国家権力」の四つの領域において、見事に描き出している。
 こうした無間地獄のごとき構造からいかにして脱出できるのか。めざすべきは「社会主義」しかない。この言葉に重ねられてきたさまざまなネガティブなイメージをものともせず、フレイザーはかねてよりそう主張してきた。
 だが、ロジカルに考えれば、資本の運動が私たちの生活をあらゆる面で脅かし、人類の持続可能性を消し去りつつあるのだとすれば、採るべき道は資本主義の乗り越えしかあり得ない。それは、社会による資本の統制であり、資本に対する社会の優越という意味で社会主義である。無論、その道が困難なものであることはフレイザーも熟知しており、本書でも十全に具体的な社会主義社会のヴィジョンが与えられているわけではない。
 とはいえ、いま求められているのは、確信の広まりではないだろうか。資本主義社会に未来はないこと、それは持続不可能であること、それは乗り越えられなければならないこと。この確信を燎原の火のごとく広げることが、まずは必要なのだ。そして、本書はその任を十二分に果たすものにほかならない。