PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

鰻の骨
明るい後悔・2

PR誌「ちくま」9月号よりモデル・小谷実由さんのエッセイを掲載します。

 母が、成田山で買ってきてくれた鰻重が忘れられない。その日はたまたま夫が仕事で不在。鰻好きの夫を差し置いて、鰻重をうまいうまいと一人でありがたく舌鼓を打った。仕事で不在なのだから仕方がない。とはいえ、事後報告をするのもなんだかなぁと思い、夫には内緒にすることにした。
 完食後にお茶を一口飲むと、その違和感はやってきた。チクッとする。え、まさか。いやいや。ゴクリ、あれ、いるな、私の喉に。骨。細くて繊細な骨でもたまに喉に刺さることがある。その「たまに」に本日当選してしまったのだ。おめでとう、私。いや、おめでたくないよ。しばらく放っておいても違和感は続く。こうなったら指を突っ込んで抜いてやる!と思ったが、痛い箇所は奥にありすぎて指が届かない。昔からよく言われているご飯を丸呑みにする方法も全然効果なし。その後調べてみるとご飯の丸呑みはむしろ逆効果らしいと知り青ざめる。とにかく骨が何かの拍子に抜けることを祈り、眠った。明日起きたら、何事もなく元通りになっていますように。
 翌朝、目が覚めて恐る恐る唾を飲み込んだ。お祈りも虚しくまだ絶賛痛い。そんなに私の喉が居心地が良いか、骨よ。これはやっぱり夫に嘘をついているからいけないのか。昨晩、あまりにも不安で「喉に骨が刺さった」と電話で夫に打ち明けてしまったのだ。案の定何を食べたのか聞かれ、なんの迷いもなく「鰺の開き」と淡々と嘘をついてしまった。〝嘘ついたら針千本飲ます〟という歌詞があるが、私の喉にあるこの骨は針の一本目かもしれない。
 仕事中もまだずっと痛い、まるで喉に骨が刺さることと無縁の人のような笑顔で服を着てカメラの前に立つ。しかし、あまりにも気になり病院へ駆け込んだ。問診票に「魚の骨が喉に刺さっている」と書き込む。人生でこんなことを書く日がやってくるとは思わなかった。私にとっては大事件だが、看護婦さんにはちょっと面白いかもしれなくて恥ずかしい。そして診察。昨晩からの不安がやっとここで拭われるぞ!とある種フィナーレのような気持ちで医師に喉を見せる。よくぞここまで戦った私……。
 医師「何もないですね」。耳を疑った。いろいろ覗き込んで見てくれたが何も見当たらないという。納得いかないので追加料金を払い鼻からカメラを通して見てもらったが、何もない。じゃあこの痛みは一体。骨が抜けた後でも、痛みの感覚がまだ残っていて、まだ刺さっているように感じることもあるらしいが、これ以上詳しい検査はここではできないそうなので、大学病院の紹介状を書いてもらい帰宅。
 きっともう骨は抜けていて、まだ痛い感覚が残っているだけなのだ!そうだそうだ!と思うことにする。自己暗示は得意な方だ。ひとまずお茶でも飲もう。そうして、一口お茶を飲んだ。あれ?ない。あの違和感がない!なんの変哲もない家で淹れたお茶を飲んだだけなのに、違和感が突如消えた。何度もゴクリと飲み込む。ない!
 突然原因もわからず幕を閉じた鰻の骨喉滞在記。ことの全てを帰宅後の夫に話す。「で、何食べたんだっけ?」という問いかけに「鰻!あ、間違えた鰺の開き!」という安心のあまり出てしまった下手な嘘で大フィナーレを迎えた。美味しいものは誰にも内緒にせず、みんなで共有しながら食べるのがいい。

PR誌「ちくま」9月号

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