ちくま新書

格差の拡大は、この社会をどう変えたのか?

ちくま新書3月刊『不平等を考える:政治理論入門』の「はじめに」を公開いたします。どのような不平等が、なぜ問題なのか? 社会保障やデモクラシーの制度は、正当化しえない不平等にどう対応できるのか? こうした難問を、カントやロールズ、ハーバーマスらの議論を手掛かりに考える、政治思想の新たな基本書です。ぜひご覧ください。

 社会と政治はいま大きく変わろうとしている。2016年、イギリスで国民投票によってEUからの離脱が決められ、アメリカの大統領選挙でトランプ氏が勝利したことはまだ記憶に新しい。こうした政治の変化は、この数十年のあいだに格差の拡大が進み、深い亀裂が走るようになった社会の現実を映しだしている。実質所得が低下しつづけるなか、将来へのたしかな見通しをもつことのできる人は多くはない。先行きへの不安と現状が変わらないことへの苛立ちは、変化を強くアピールする政治に力を与える。

 本書では、格差の拡大が政治に大きな影響を及ぼしている現状を踏まえながら、私たちが平等な関係の再構築を探っていくうえで、どのような制度の構想がありうるかについて考えてみたい。

 まず、不平等が、いま日本の社会にどのような事態を引き起こしているかを振り返ってみよう。

格差の拡大

 1980年代初めには「一億総中流」という言葉がよく口にされていた。もちろん当時もこの社会に格差がなかったわけではない。大企業と中小企業の間には歴然とした格差があったし、たとえば原発の立地に見られるように、いわゆる「国策事業」の多くも、地域間の交渉力の違いを利用する仕方で進められていた。それでもこの言葉がさほどの違和感なく響いたのは、経済成長の経験、そして二度のオイルショックを乗り切った自信を背景に、「明日は今日よりもよくなる」という見通しをほとんどの人がまだもちえたからである。

 しかし、バブル経済崩壊後の「失われた20年」を経験するなかで、そういう展望はリアルなものではなくなった。実際、1990年代後半から、不平等が拡大し、しかもそれが世代を越えて再生産されていることが、実証的な研究によって明らかにされてきた。過去のものとなったはずの貧困も、この頃から社会問題として再びクローズアップされ、近年は、「子どもの貧困」にも関心があつまっている。

 過度の格差が、このまま是正されることなく放置されれば、人々の間の平等な関係も損なわれ、優位- 劣位の違いが関係を変えていく。近年のジニ係数(所得格差を表す指標)が示すのは、税や社会保障を通じた再分配も有効にはたらいていない現実である。

 多くの論者が指摘してきたように、日本の社会には、これまでも十分な社会保障があったとはいえない。社会保障の弱さを補ってきたのは、雇用保障ーー公共事業を通じた雇用の創出・維持、解雇に対する規制等ーーだが、この機能もこの十数年大幅に後退してきた。一方、この間、企業の競争力を維持するために非正規雇用の拡大が政策として推進され、いまでは非正規雇用の労働者が働き手の四割近くを占めるようになった。正規雇用と同じくらい働いても安定した生計の見通しを得られない「ワーキングプア」の存在に関心が寄せられるようになってからもだいぶ経つ。

 正規、非正規を問わず労働環境は厳しさを増し、過労死や過労自殺の報道も相次いでいる。そこまで至らずとも、心身の健康が損なわれている人は少なくない。これも実証的な研究が指摘するように、不平等な社会に生きることはそれだけで人々の健康にとってマイナスに作用する。

社会統合の綻び

 このような格差の拡大は、当然のことながら、社会統合の行方にも暗い影を落としている。

 景気が回復しても、それが国内に安定した雇用の拡大をもたらすことはなくなった。経済政策の推進によって不利益を被る地域や産業を公共事業や補助金等によって保護するという政府の機能も、財政の偪迫(ひっぱく)のためにいずれは後退していくことが避けられない。経済に対する国家の介入は今後さらに選択的なものとならざるをえず、その対象とはされない、つまり、取り残され、見棄てられる産業や地域が顕在化してくるはずである。

 このように経済成長を背景とした統合の綻びが明らかになると、それを日本に固有とされる文化や伝統によって繕おうとする動きも立ち現れてくる。固有とされる特殊な価値に訴えて国民の統合を再建しようとする思潮である。しかし、人々の価値観や生き方がすでに多元的になっている条件のもとで同質的な統合をはかろうとすれば、それは抑圧的な仕方で作用することになろう。

 実際、一つの社会をともに構成する市民であるという意識は必ずしも自明なものではなくなりつつある。政府から手厚い支援を受ける産業が生産拠点を海外に移したり、富裕層が租税回避の行動をとっていることを伝える報道に接するたびに、負担増を受け入れながらこの社会にとどまる理由とは何なのかと尋ねたくなる人もいるだろう。

 そして、日本ではまださほど目立っていないにしても、社会的・経済的格差は、居住地の分離に空間的に反映される。生活する場所が互いに隔たったものとなれば、互いに交流や接触をもつ機会も少なくなり、ともに同じ社会に属しているという感覚も薄れざるをえない。

デモクラシーにおける変化

 冒頭でも触れたように、現状を変えてみせると語る政治家が現れれば、人々は、ときにその利害に反してさえ、そうした政治家を支持する。意思形成の手続きを形骸化しても決定を急ぐ、いわゆる「決められる」政治への支持も現状への不満を背景としている。政府が、デモクラシーを多数意思の政治に還元するようなやり方を続けても、また、期待していた経済政策の成果が眼に見えなくても、「民意」がそれから離れないのは、政策を敢行しようとする姿勢それ自体が変化への期待をなにがしか抱かせるからだろう。

 しかし、この種の政治は安定を導かない。船頭を変えてみても否定的な現状がそう変わらないことが分かれば、その失望は、その時々の政治的リーダーや政府に対する支持の撤回にとどまらず、社会の根幹をなす制度そのものへの不信を招いていくだろう。

 とはいえ、長年、政治的アパシー(無関心)として特徴づけられてきたこの社会の政治文化にも変化のきざしが見えてきた。

 実質所得の低下、そして社会保障や雇用保障の後退は、私生活の充実に専念するゆとりのある、かつての私生活志向をもはや成り立ちがたいものにしている。いまあるのは、いわば「追い込まれた」私生活志向である。日々の勤めをはたし、暮らしをまもっていくだけで精一杯で、働き方や暮らしを左右する政策について熟慮したり、自らの判断を行動に移していく余力はなかなか得られない。それでも、重要な政策については人任せにしないという政治的関心が、近年、たとえばエネルギー政策や安全保障政策、あるいはまた待機児童問題などをめぐって表明されてきた。

 

 ここまで概観してきたように、私たちの社会はいま大きな転機を迎えている。社会的・経済的格差がこのまま拡大をつづけ、それが政治的格差にも変換されていくのか。社会統合の再建が、再び異質とされるものを排除する内向きのものに傾いていくのか。中間層が現に経験している生活条件の悪化が、ポピュリズムの政治の繰り返しを招き、不安定化を加速させていくのか。

 それとも、格差の拡大に歯止めをかけ、子どもたちが貧窮のなかで将来への希望をあきらめずにすむ社会へと舵(かじ)を切っていくのか。「われわれ」のまとまりを排他的につくりだすのではなく、異なった文化や価値観が多元的に共存できるような統合のあり方を築いていくのか、一部の者が牛耳ったり、数で押し切る政治ではなく、市民が熟慮や熟議の機会をもつことのできる政治を定着させていくのか。

 今のところ見通しは明るいとは言えないが、転機は、私たちが社会や政治のあり方を、その基本に立ち返りながら、問い直してみる好機でもある。

 本書の議論は、いま挙げた諸問題を「市民として」どう考えるかを導きの糸としている。「市民として」というのは、社会の制度を他者と共有し、その制度のあり方を決めることができる立場にある者として、という意味である。それぞれ個人の立場から見て合理的(rational)であるかどうかを考えることと、互いの立場を考慮しながら、ともに受け入れるべきものとして何が理にかなっている(reasonable)かを市民として考えることは、『正義論』の著者J・ロールズも言うように、異なっている。

 以下で考えたいのは、この先、不平等が引き起こす諸問題に対応していくとき、どのような社会の制度を理にかなったものとして共有していくことができるか、についてである。