単行本

父の物語(から)の解放

中上紀『天狗の回路』

PR誌『ちくま』7月号より、中上紀『天狗の回路』の武田将明さんによる書評を転載します。

「岬」、『枯木灘』、『地の果て 至上の時』などの作品からなる中上健次の紀州サーガは、作家本人の投影された主人公秋幸と、彼の母を含む三人の女を同時に孕ませた荒くれ者龍造との父子の葛藤を中心とする、血と性の物語である。
 その中上健次の血を受け継いだ中上紀が紡ぐ物語は、紀州サーガの起点、すなわち男が複数の女を妊娠させた出来事への言及から始まる。しかしいま強調されるのは、父と息子ではなく祖母と孫娘の関係、血で血を洗う相克ではなく苦労に満ちた人生の反復である。

〈(……)終戦直後のことです。いろいろあったと思います。いま私たちが直面している「いろいろ」よりも、もっと切実だったかもしれないし、逆にいまのほうがある意味もっと切実なのかもしれませんが、とにかく、その時代なりのいろいろによって、いまの私がここにいるのだと思います〉

〈 〉で括られながらも、この時点では誰のものか分からない匿名の引用に続き、作者本人を思わせる「私」が語り始める。南アジア出身の夫と小学生の二人の息子との現在の生活。子供時代からずっと、小説家だった父に連れられて毎夏「田舎」に行ったこと。父の没後も、母や妹、弟たちと欠かさず夏は「田舎」に滞在してきたが、昨年は母の体調不良などの理由で、「田舎」に行くのは「私」だけだったこと。父の故郷であり、その文学の母胎でもある「田舎」を詣でることを「責任」として引き受けた彼女のSNSに、一通のメッセージが届く。それは父の異母妹の娘、美貴からのものだった。
 先ほどの引用も美貴が記したものだが、彼女はその祖母、すなわち「私」の祖父と添い遂げた女性の人生を延々と綴り、「私」のSNSに送信する。美貴が明らかにする祖父零次郎は、「綺麗な顔」をした「優しい」男だった。男の頼りなさと対照的に示されるのが、女たちの意地である。中上健次の「火宅」では、幼い主人公とその母が身勝手な男を追い返したことしか書かれていないが、本作では三人の女たちが零次郎を奪い合うのではなく、譲り合う様子が描かれている。もうひとりの妊婦である女郎のモミジも美貴の祖母も、ソノ(「私」の祖母)が零次郎の妻になるべきだと考えて身を引こうとするが、ソノと息子に追い返された零次郎は、気立ての優しい美貴の祖母を選ぶ。選ばれた彼女は、「捕り込まれてしまったんや」という意味深な感想を抱く。
 こうした経緯を述べる美貴の文は、紀州サーガにおける語り部の女たちを髣髴とさせる。しかし注目すべきはむしろ、作者が「私」ではなく美貴の方に、紀州サーガの語り直しを託したという点だ。零次郎を譲り合う女たちではないが、強力な父の物語に「捕り込まれる」ことなく「責任」をとるために、作者は意図的に私小説の枠組みを使いながら、語りの主体をずらしたのではないか。
 その結果、壮大な血と性の物語は、男という厄災を引き受ける女たちの、世代と土地を越えた語りの反復へと解体される。無頼漢の零次郎も、各地を放浪する美貴の曾祖父も、家庭を顧みない「私」の夫も、すべての男たちは根無し草で、家族を養う責任から逃走する。ロマンスの幻想は壊れ、退屈な日常が残る。熊野の屹立した岬と広い湾とのダイナミックな交接の代わりに、本作ではパソコンと猫のトイレとが合体させられる。しかし、この散文的な現実は、独自の不気味さを湛えている。美貴と「私」、そしてネット掲示板で知り合ったモモという女性。彼女たちはまるで分身のように入り乱れ、自我の解体と並行するかのように、「私」の現実も不穏な変貌を遂げる。
 SNSと現実、そして空想と事実の境界が崩れ、どの世界が本当か分からなくなるなか、「私」は「何もかも嘘だ」と思う。ここを読むと、自殺する龍造を見たときの秋幸の「違う」という叫び(『地の果て 至上の時』)を想起しないわけにいかない。しかし秋幸の叫びは物語を破壊する現実への抗議だったのに対し、「私」のつぶやきは現状認識にすぎない。この差異は現代文学の難しさを象徴してもいるが、同時にひとつの可能性を示してもいるだろう。現状認識なしには、なにも始められないのだから。ここから今後、どのような文学が生まれるのか期待したい。
 

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