ちくま学芸文庫

エーリッヒ・フロム『悪について』の新訳に寄せて

1月刊行のちくま学芸文庫『悪について』(エーリッヒ・フロム著、渡会圭子訳)より、文庫版解説を公開いたします。本書『悪について』は、『自由からの逃走』『愛するということ』に連なるフロムの代表作の一つであり、日本でも長く読みつがれてきました。その今日的意義と魅力について、社会学者の出口剛司氏が論じます。

 このたび、鈴木重吉さんの訳で長く親しまれたエーリッヒ・フロム『悪について』(原題The Heart of Man)が翻訳家の渡会圭子さんの手によって新たに訳し下ろされ、ちくま学芸文庫の一冊に加えられることになった。
 著者であるエーリッヒ・フロム(1900-80)はドイツ生まれのユダヤ人、新フロイト派の精神分析学者、社会心理学者であり、ナチス台頭の心理的メカニズムを解明した主著『自由からの逃走』(東京創元社)は今や社会学、社会心理学の古典である。また彼の手による『愛するということ』(紀伊國屋書店)は今なお世界中の人びとに読みつがれている。このたび新訳された本書を、『自由からの逃走』の続編であると同時に、『愛するということ』と一対をなす書物とフロム自身は位置づけている。その意味で、本書はフロムを理解する上で二つのベストセラーに勝るとも劣らない重要性を帯びている。学芸文庫の一冊として一般読者にとって手に取りやすくなることで、『自由からの逃走』や『愛するということ』の理解が進むだけでなく、両ベストセラーにはない、フロムからの新たなメッセージを受けることができるだろう。
 ここではまず、本書を通してはじめてフロムと出会う読者のために、フロムの生涯と本書の位置づけについて紹介しておきたい。

 エーリッヒ・フロムは1900年、フランクフルト・アム・マインの敬虔なユダヤ系ドイツ人の家庭(ワイン商)に生まれた。フランクフルトは、日本ではアニメ「アルプスの少女ハイジ」のクララとの出会いの舞台として有名となる美しい商都であったが、第二次世界大戦によって市街地の多くを失った。しかし、フロムの生家とその周辺は幸い戦火を免れ、当時の美しい面影を今に伝えている。現存している生家の敷地前にある小さな広場は、その名もエーリッヒ・フロム広場である。フロムは父方、母方ともに代々ユダヤ教の学者や聖職者を出す家系の出身で、フロムという名もドイツ語では「敬虔な」という意味をもつ。またドイツ語にはエーリッヒ(Erich)と似た発音のエールリッヒ(ehrlich)という語があり、「まじめな」という意味がある。「エーリッヒ・フロム」はドイツ語話者には「まじめで、敬虔な」と響く。青年時代、ユダヤ人の友人たちが「エーリッヒ・フロムのように(まじめで敬虔に)なれますように、そして天国に行けますように」という、信仰深い家系に育ったフロムを揶揄する祈りの文句を作ったことが伝えられている。
 市内のギムナジウム(中・高等学校)を卒業したフロム青年は、フランクフルト大学で法律学を、その後ハイデルベルク大学で社会学を学ぶ。大学卒業後は、関心を社会学から心理学に移し、フロイト派の精神分析学者として研究と実務に従事する。このころ、正式にユダヤ教の信仰を放棄する。自由(『自由からの逃走』)、善(愛)(『愛するということ』)、悪(暴力・破壊性)(『悪について』)という主題は、まさにユダヤ=キリスト教的な倫理思想の根幹をなすものだが、フロムの思想は宗教をめぐる争いが激化した現代、特定の宗教に依拠しない自由、善、悪について思索する上で、大きな示唆を与えてくれる。
 1930年、マックス・ホルクハイマーが率いるフランクフルト大学社会研究所の社会心理学部門の責任者に就任し、当時最大の関心事であった権威主義や独裁政治に関する学際的研究に携わる。しかし、ナチスの台頭を受けアメリカに亡命、またアドルノの参加をきっかけに研究所も去り、以降は唯物論の立場からマルクス思想とフロイト思想の融合を試み、新フロイト派の社会心理学者として活躍する。1941年にはフロムの名を不朽のものとしたファシズム研究の古典『自由からの逃走』が刊行される。1950年からは生活の拠点をアメリカからメキシコへと移し、その間『人間における自由』(1947年)、『夢の精神分析』(1951年)、『正気の社会』(1955年)などを執筆する。メキシコ時代には世界的に有名な日本の仏教哲学者、鈴木大拙と禅と精神分析に関する共同セミナーを開いている(『禅と精神分析』1957年)。同じくメキシコ時代の1956年に出版された『愛するということ』は、フロムを社会心理学の一研究者から一人の独立した思想家、時代の人気著述家へと押し上げた。1974年、メキシコからさらにスイスへと居を移し、『破壊』(1973年)、『生きるということ』(1976年)を刊行する。なお、これらの書物にはすべて邦訳が存在する。1980年3月18日、80歳の誕生日を目前にスイスで永眠。死因は心臓発作である。生涯三度の結婚を経験するが、実子はなく、死後も墓石を望まず、遺骨は遺言にしたがってスイスのマッジョーレ湖上に散骨された。フロムの伝記をまとめたライナー・フンク博士は著書を以下のフロムの言葉で締めくくっている。「完全によそ者であった者だけが、よそ者をほんとうに理解することができる。しかしながら、よそ者であるということは世界中をわが家とすることができる。この二つはつながっている。もしわたしが一つの国において、あるいはすべての国において、よそ者でないならば、私にとって、この世界にわが家はない。そして、もしこの世界にわが家を持つとすれば、わたしは至る所でよそ者であると同時に、よそ者ではないのである」(『エーリッヒ・フロム――人と思想』佐野哲郎・佐野五郎訳、紀伊國屋書店、1984年、215-6頁)。

 ここで、『悪について』に立ち返ろう。本書を一貫するのは、人間の本質的な「悪」とは何か、という問いである。本書が書かれた1964年はヴェトナム戦争(1960-75年)の真っただ中であり、この年、中国が核実験に成功している。その2年前の1962年には人類全滅まで危ぶまれたキューバ危機が起こり、本書が刊行される前年(63年)にはケネディ大統領が暗殺された。そうした中でフロムを捕えたのは、暴力とテロが蔓延し、わずかな対立でさえ人類滅亡の脅威へとつながるという危機意識であろう。たしかに、こうした国際的な政治対立や核の危機は形を変え、21世紀に暮らすわれわれをも脅かしており、その意味で本書のアクチュアリティは今もって失われてはいない。しかし本書の魅力は、脅威や危機が国際的な社会情勢の中から浮かび上がるだけでなく、まさにわれわれ一人ひとりの「心」の中から日々生じていることを時代を超えて感じさせてくれる点にある。本書の原題が「人間の心について」とされる理由がここにある。
 フロムは『自由からの逃走』『人間における自由』『愛するということ』といった書物で人間の自由と善について、そして本書では悪について正面から論じている。自由、善(愛)、悪(暴力・破壊性)は、道徳哲学や倫理学の世界では三位一体の関係にある。人間の行為や振る舞いについて、善悪という判断が可能となるためには、自由意志がなければならない。自由がなく服従や強制によってなされた行動に対しては、その責任(善悪)を問うことができないからである。ここから自由を享受する人間に対して「自分自身の自由において正しい道徳にしたがい、行動しなければならない、そして道徳や規範にしたがう善は賞讃され、それらに反した悪は処罰の対象となる」という道徳が与えられる。むろん、フロムはこうした「正しい道徳」が前提にする「自由」に疑いの目をむける。
 フロムは、自由や善の危うさ、それらが悪へと反転する可能性に繰り返し警鐘をならす。『自由からの逃走』においては、伝統的共同体や封建的身分秩序が解体し、自由を手にした人々が、逆に自由によって孤立、不安、無力の感情に取りつかれ、自由を進んで放棄し、新たな支配と服従(サディズムとマゾヒズム)へと突き進んでいく姿が描かれている。こうした自由は「消極的自由(~からの自由)」と呼ばれ、その心理的メカニズムが現実化したものがワイマール末期のドイツ、そしてヒトラーの台頭なのである。
 フロムにとって、自由が支配と服従へ反転する原因は、個人の内面に巣食う孤独感、不安感、無力感である。これらの孤独、不安、無力といった感情が内側から自己と自己の自由を掘り崩す。そうした感情を克服するために、フロムが提唱したのが、「積極的自由(~への自由)」であり、生命の表現としての愛である。これらをあえて一言で言うならば、自己の内部、自己と他者の内部に何かを生み出す創造の行為をさす。拘束や抑圧から解放された自由(消極的自由)にとどまるならば、そうした自由は孤独、不安、無力の感情を生み出し、人は再び自由を放棄する。それを回避するための積極的自由とは、単に拘束がない状態ではなく、自己の可能性を能動的に展開し現実の形にする力である。愛とは、他者に執着することや、自己犠牲という代償を支払うことではなく、愛の主体である自分と対象である他者に働きかけ、その内部に新しい感情、観念、経験を作り出す能力のことである。こうした創造の力によって、われわれは負の感情を克服することができる。
 本書『悪について』では、新たにネクロフィリア、バイオフィリアという概念が導入されることで、従来の思想がさらに深められる。これまでのフロムの思想と関連づけていえば、積極的自由の実現や愛などの創造性の発現が「善」であり、バイオフィリア(生命への愛)に対応する。では、自由を放棄する権威主義(サディズムやマゾヒズム)が「悪」なのであろうか。実は話はそう単純ではない。フロムは自己防衛、欲求不満、復讐、不信、絶望、憎しみから生じる暴力は「真の悪」ではないと断じる。なぜならば、それらもまた屈折した形であれ、生(創造の力)の増大に貢献しうるからである。サディズム的な残虐さでさえ、ときに生の実感を与えてくれる。フロムの言う真の悪とは、そうした生の力、すなわち創造の力を窒息させ、衰退させるものである。本書では、生の衰退を誘引するものとしてナルシシズム、ネクロフィリア、共生的固着の三つがあげられている。これら三つの病理が本書前半部の中心的な主題である。

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