ちくま新書

言語学の全体像と、新しい姿

国家、発達障害、人工知能、……旧来のイメージや枠組みを飛び越え、言語学には新しい知見や切り口がどんどん登場している。言語学の全体像や基本の構造からさまざまな論点、新しい枠組みまでを縦横無尽に取り上げる本書の「はじめに」を公開します。

 シェークスピアや源氏物語について改めて研究することがあるんですか、と真顔で質問してくる方がたまにいる。これに十分に答えるにはまず予備知識を補充したり入れ替えたりしてもらわなければならないから、短時間で簡単に納得してもらえる回答は提示できない。「歌は世に連れ、世は歌に連れ」というように、「学問も世に連れ、世も学問に連れ」という面があって、すべての研究がその研究者の生きている時代の影響を受けるのだ、などと抽象論で概括することはできる。しかし、意図するところはなかなか伝わらないままで、もどかしい思いも残る。
 近年は歴史研究の中で、応仁の乱や大化の改新などの新しい解釈が示されて世間の耳目を集めているから、同様に古典作品にも新たな読みや解釈があり、新事実が判明することがあるという説明でやっと理解してくれる方もあるものの、それでもわからないと言われると途方に暮れてしまう。
 学問は普遍的な真実を追究するものとは言え、現実の学術の世界は、新しい知見が次々に見いだされ、新たな手法がいくつも開発され、学問としてのコンテンツ自体も日々更新されている。技術開発としての性質が強ければ更新のスピードは速く、変化の範囲や規模も大きくなる。私たちは末端の最終的な消費者として技術革新の恩恵を受けていて、その進歩や変転の早さを日々実感しているから、このことは理解しやすい。
 一方で、学問と言っても、テクノロジーとは無縁の領域では、重要なことは変わらないから十年一日ずっと同じことばかり研究していて、変化も更新もほとんどないと思っている人は想像以上に多い。しかし、実態はそれほど牧歌的でもないのである。

言語学ってなに?
 実は言語学もまた同じように、更新の速度や規模は技術系の領域に及ばないにせよ、そのコンテンツはかなり変化してきた。昔言語学を学んだという場合でも、どの先生に教わったか、どの時期に勉強したか、どんな本を読んだかなどで、語られる「言語学」は実にさまざまである。「生成文法」だけをそう呼ぶ人もあれば、歴史言語学や社会言語学をそう思っている人もあり、英語と日本語の違い(日英対照言語学)を言語学だと信じて疑わない人もいる。しかし、言語学はもっと幅広い領域へと拡大してきており、内容も新しい知見がどんどん付け加えられているのである。
 実のところ、言語学者でもすべての範囲を把握できないほどに広がってしまっていて、専門が違うと同じ言語学の研究者でも話が通じないほどになっている。高度な研究になればなるほど専門化と細分化が進み、同じ学問領域でも専門とするテーマが違えば、あまり話が通じないという状況は、どの分野でも起きている。
 特に言語学は、音声・形態・文法・意味・運用と領域を切り分けて専門性を高めてきたいきさつがあるので、統合性を失わないように意を用いなければ空中分解しかねない、という危惧を覚える。専門性の高い成果を挙げても、その専門領域の外側ではまったく理解されないとすれば双方にとって不幸である。

全体像と新しい姿
 さらには、言語学において普遍的な真実と思われたようなことも、不断の検証にさらされることで、見直しが必要な状況になっていると私は考えている。とは言え、たとえ概略を大ざっぱに述べるだけでも、現在の言語学の全体を語ることはできない。また、専門的で細かい話は予備知識がないとまったく面白くないものである。そこで、この小さな本では、いまの言語学の全体像を俯瞰(ふかん)しながら、興味深いところや重要な分岐点にさしかかっている議論、新しい枠組みと変化しつつあること、古い知識をどう更新すべきか悩ましい問題などを、一見ランダムなやり方で取り上げることで、「言語学の今」を浮かび上がらせてみたいと考えている。
 外から眺める言語学は、眺める人によってある一面だけが大きくクローズアップされがちである。現代思想や哲学などから眺めれば言語学は「構造主義」をはじめとした発想や枠組みが、日本語教育に携わる人からすれば「口蓋化」(こうがいか)といった音声現象や「情意フィルター仮説」といった応用言語学の考え方が、言語聴覚士やその国家資格を目指す人にとっては音声習得と喪失の対称性や「錯語」(さくご)といった神経言語学の知見が、それぞれ重要な意味を持つのかもしれない。しかし、言語学全体にはまだまだ興味深い領域やテーマがたくさんある。もちろん、言語学そのものも日々悩みながら進歩している。本書がそのツアーガイドの役割を果たしたいと思う。

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