ちくま新書

「ゲノム編集ベビー」は何が問題か

最先端の生命科学技術が人類にもたらすもの

2018年11月に「ゲノム編集した双子の赤ちゃんを誕生させた」と中国の科学者が発表。科学界に衝撃を与えたこのニュースをはじめ、ゲノム編集とは何か、その技術と課題についてニュートラルに解きほぐして解説するちくま新書2月刊『ゲノム編集の光と闇』から、「はじめに」の一部を紹介します。

 いつかはこういう時がくるだろう。そうは思っていましたが、まさかこんな形でやってくるとは ――
「中国の研究者がゲノム編集した受精卵から双子の女の赤ちゃんを誕生させたと主張している」「改変したのはエイズウイルスの感染に関わる遺伝子だという」
 そんなAP通信の特ダネが流れてきたのは2018年11月26日のことでした。この記事を見たとたん、「えっ、まさか」という思いと、「事実かもしれない。そうだとしたら大変なことだ」という思いが交錯しました。
 ゲノム編集は2012年ごろから注目を集めるようになった「遺伝子を狙い通りに切り貼りできる技術」です。「ワープロで文章を編集するように、人間の設計図に相当するゲノムを自在に編集する技術」と言ってもいいでしょう。
 特に「クリスパー・キャス9」と呼ばれるゲノム編集の分子ツールは、正確で効率がよく、扱いが簡単で、安いという、3拍子も4拍子もそろった技術で、野火のように世界の研究室に広がって行きました。
 すでに野菜や家畜、魚の遺伝子改変はこれまでの何倍ものスピードで進み、肉付きのよいマダイや角のない牛、芽に毒素を含まないジャガイモといった「ゲノム編集生物」が生み出されています。「ゲノム編集を使ってマラリアを媒介する蚊を根絶してはどうか」というアイデアも出てきました。体細胞の遺伝子を改変して病気を治そうとする「ゲノム編集治療」の試みも、急速に進もうとしています。
 シャーレの中で人間の受精卵をゲノム編集する研究もわずかながら行われてきました。実は、こうした実験を最初に公表したのも中国の別のチームで、議論を巻き起こしました。「病気を根本的に治すことにつながるかもしれない」という期待がある一方で、こうした実験がやがては「人間の改変」や「人間の選別」、さらには「未知の生物の創造」につながるのではないか、という懸念があったからです。
 いずれにしても、「そこから人間を生み出すことは許されない(少なくとも現時点では)」というのが世界のコンセンサスでした。なぜなら、生まれてくる子どもにとっての安全性は未知数で、思わぬ障害が現れる恐れが十分にあるからです。しかも、受精卵の遺伝子改変は、そこから生まれる子どもだけでなく、その子どもへと世代を超えて伝わって行くからです。親が望み通りの子どもをもうける「デザイナーベビー」にもつながるかも知れません。
 だからこそ、ある日突然「ゲノム編集ベビーを誕生させた」と公表した中国の研究者は「重大な倫理違反」として世界中から批判を浴びたのです。
 こんなふうに言うと、「これまでだって遺伝子組み換え技術があったのに、なぜ今ごろ騒ぎに?」と思う人がいるかもしれません。確かに「遺伝子組み換えによる人間の受精卵の改変の是非」についてはこれまでも議論されてきました。でもあえて大胆に言うならば、ゲノム編集と従来の遺伝子組み換えは、似て非なるものなのです。
 従来の遺伝子組み換えは効率も精度も悪く、多くの場合に細胞のDNAのランダムな場所でしか作用せず、狙った通りに遺伝子を組み換えることは困難でした。人間の受精卵に意味のある改変を加えることは、原理的に可能だったとしても、事実上は不可能だったのです。
 ところが、「クリスパー・キャス9」の登場で状況は変わりました。細胞の中の遺伝子を狙い通りに操作することが、以前に比べてずっと簡単にできるようになりました。その結果、人間の受精卵でさえも、ネズミや家畜の受精卵のように、遺伝子改変の対象と見なす人々が出てきたのです。
    
「できない時に、やってはいけないというのは簡単だった」

 ゲノム編集の人への応用と倫理を議論するために、さまざまな分野の人を集めて2015年12月に米国のワシントンで開かれた初の国際会議で、遺伝カウンセラーが述べたそうです。この一言こそ、まさに現状を言い当てていると感じます。
「ゲノム編集ベビーを誕生させた」という中国の研究者は、APの記事から2日後に香港で開催中の国際会議で自分が関与した実験内容を話しました。皮肉なことに、この会議は2015年にワシントンで開かれた国際会議の第2回に当たるものでした。人を対象とするゲノム編集の科学的進展を評価し、社会的対応について改めて議論しようとした矢先に、この研究者が爆弾を投げたのです。
 詳しい話は本文に譲りますが、もちろん、本書が扱うのはゲノム編集ベビーの話だけではありません。
 この技術がどのように生まれ、今後どのように使われていくのか。道筋をたどると、さまざまな点で「デジャブ」(既視感)を感じます。私が科学記者になって以来、30年近くフォローしてきた生命科学をめぐるさまざまな技術、あらゆる論争がそこにある、という気さえしてきます。たとえば、思いつくキーワードを挙げるだけでもこんな感じです。

遺伝子組み換え、遺伝子治療、体外受精、着床前診断、クローン技術、ES細胞、iPS細胞、遺伝子ターゲティング、ヒトゲノム計画、異種移植、絶滅動物再生、デザイナーベビー、優生学、エンハンスメント(強化) ――

 いずれも、ゲノム編集と多かれ少なかれ関係のある技術や倫理的課題です。ですので、本書は「ゲノム編集」という最先端の生命科学技術を紹介するだけでなく、それが拠って立つ「生命科学の歴史と系譜」をも辿ることになります。
 2017年にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロさんは記念講演の終盤でこう語っています。
「ゲノム編集のような遺伝子技術、人工知能(AI)やロボット工学の発展、これらは私たちにすばらしい利益をもたらすでしょう。その一方で、アパルトヘイトにも似た容赦のない能力主義や、現在のエリートにまで及ぶ大規模な失業を生み出すかもしれません」
 AIやロボット工学と並んで、文学者も注目するゲノム編集とはどういう技術なのか。

 本書ではまず、序章で「ゲノム編集以前」の遺伝子組み換えについて紹介します。(以下、本書に続く)

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