ちくま文庫

生き延びるチャンスをどれだけ高めるか

内田樹『武道的思考』 解説

 本書のタイトルは「武道的思考」である。
 そこで本を開く前に「武道的思考」って何だろうと考えた。
 むろん本書を読めば、その答えは書いてあるだろう。しかし、それを読む前に自分で考えたい。なぜならそれこそが「武道的思考」の、まずは第一歩であると(勝手に)考えたからである。
 読者の方もぜひ考えてみていただきたい。
「武」とは何か。そして、それが「道」を引っ提げて「武道」となったときに何が変わるのか。そんなことを考える。そこではじめて気がついた。この解説を書くという依頼をいただくまで、「武」とは何かをちゃんと考えたことがなかった。せっかくのチャンスだ。ちょっと気合を入れて考えてみようと思った。
 そして考え始めてまたまた気がついた。いままで「武」について考えて来なかったので、考えようとしてもちゃんと考えられない。「武」について漠然と思うことはできる。しかし、それでは考えにはならない。考えるということはなかなか難しいものである。
 私は現代人であるので、脳の一部をクラウド化している。そこで、まずはそれをここに引き落とすことにした。
 ネット上にある「先秦甲骨金文簡牘詞彙資料庫」というサイトに行き、「全文檢索資料庫」で「甲骨文」にチェックを入れて「武」を引く。すると「武」が使われている甲骨文が三三三片現れた。それらをノートに写しながら、ひと通り読む。次に「金文」にチェックを入れて「武」を引く。こちらは二〇三と甲骨文より少ないが、しかし文章は長い。ノートに写すと大変なので、それはせずにひと通り読む。甲骨文の「武」と金文の「武」との間にあるニュアンスの違いなど気になることが多い。「武」とは何か、余計にわからなくなった。しかし、わからないことをわからないままに頭の中に突っ込んで、少しのあいだ散歩をする。
 この散歩の間に余計なことは削ぎ落とされ、身に残ったものが考えるための材料となる。
 古代中国や古代日本の武人たちのことも考えてみる。今まで武人にもあまり注目してこなかったことにも気がついた。『史記』を開き、『古事記』を開く。何人かのエピソードを頭の中に入れたら、また捨て去るための散歩をする。
 そんな風に「武」や「武道」について考えたあとに「的」を入れてみた。驚いた。「武道」と「武道的」は、まったく違う人のように見えるのだ。そうそう。ゆっくりと考えていると、概念が「人」に見えてくる。「武」という人、「武道」という人、「武道的」という人。みんな違う。何が違うかというと自分との距離が違う。一番遠いのは「武道的」である。概念として抽象化され、遠くの方にぽつんと佇む。ところが「武道的思考」と言ったとたんに、そいつが自分の中に飛び込んできた。
「武道的思考」という概念が、自分の身の内に入ったとき(身内になったときですね)、はじめて本を開く。目次を見る。案の定、あとがきに〝「武道的」ということ〟というのがあった。危ない、危ない。それを読む前に考えておいてよかった。
 私が考えた「武道的」と内田さんが考える「武道的」とでは違っている。が、それは構わない。参考書ではない。正解を求めるような読書はしていない。しかし、明らかな自分の勘違いもあった。真剣に考えたあとならば、それは自ずと見えてくる。自分の考えを微調整する。
 が、まだ読み始めない。
 内田さんの本には、ひとつ(あるいは複数)の結論に向けて話が論理的に構築される種類のものと、ブログなどの内容がいくつも集められている種類のものがある。本書は後者である。
 同じ類の本を古典で探せば『論語』や『新約聖書』の「福音書」などがそうだろう。その特徴は、要約ができないということだ。作者が何を言いたいかをまとめることができない。孔子やイエスの次の世代になると、それができるようになる。『孟子』や『新約聖書』の「パウロの書簡」などだ。内田さんでいうと前者の書籍群だ。
 前者と後者の違いは何かというと想定読者ではないだろうか。前者は(おそらく)ひとり、あるいはひとつのグループの読者を想定して書いている。後者は、読者が固定されていない。イエスや孔子ならば、行く先々、会った人ひとりひとりに向けて語られている。本書もいろいろだ。だから全体を通して読むと矛盾があったりする。それはそうだ。相手が違えばいうことも変わる。それは「武道的」であるはずだ。
 あ、孔子やイエスも武道家だったのか。
 このような本の読み方は、おみくじのようにぱっと開いたところを読むのが楽しい。夏目漱石は小説ですら「こうして、御籤を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです(『草枕』)」という。本書のような本は特にそうだ。
 しかし、本としてまとめられているからには編集という作業が入っている。本書でも各章ごとにタイトルが付き、その下にはそれに関連する話が集められている。
 この章タイトルを付け、そこにブログなどから集めたものをタイトルの下に載せたのが内田さんご本人なのか、編集の方なのか。聞けばすぐに教えてくれるだろうが、それは聞かない方が楽しい。ただ目次と章タイトルを眺め、ひとつひとつゆっくり考える。
 第一章の「武道とは何か?」から始まり、第二章は「武道家的心得」と続く。
 しまった。武や武道、武道的について考えていたが、「武道家」について考えていなかった。でも、もう読みたい。「武道家」についてゆっくり考えている余裕はない。仕方がなくグーグルで「武道家」を検索してみた。後悔した。なんとラーメン屋ばかりが出てくる。インターネットがビジネスのツールになり、検索エンジンですらマーケティング仕様になっているその末路を眺めて、まったく違うことを考えた。
 が、気を取り直して目次を読み進める。第三章は「武道の心・技・体」、ここが一番惹かれるなと思いながら、自分にとっての「武道の心・技・体」を考えてみる。あれ? 武道における「技」と「体」との違いがよくわからない。ならば能における両者の違いはどうか。これならば何となくわかる。そこから武道における「技」と「体」を類推しておき、あとは本文で確認しようと思って目次に戻る。
 第四章は「武士のエートス」である。おお、起承転結の「転」だ。本章から目は個人から社会に向けられる。
 江戸時代、武士は武闘集団であり、政治家であり、官僚であり、そして経済人でもあった(商売人ではなかったが)。「武士のエートス」は政治家のエートスでもあり、官僚のエートスでもあり、経済人のエートスでもある。
 内田さんは、本書で「やっていることは最初から最後まで同じ」、すなわち「武道的にふるまう」ということだと書いている。武士とは、この「武道的にふるまう」人のことをいうのである。そして、武道の目的を内田さんは端的に「生き延びる」ことだという。
 生き延びるチャンスをどれだけ高めるか。傷つけられ、生命力を失うリスクをどれだけ切り下げるか。そのシンプルな目標に全身全霊を集中させる。それが「武道的」という構えだろうと思います。
 そのためにルーティンを重視するという。ルーティンの最大の手柄は「変化に対する感受性」が高まることだ。「昨日と違うこと」が際立って感知される。要人警護のSPたちにとっては「昨日あったものがない」「昨日なかったものがある」ときに発せられるアラームの発動によってリスクを回避できるようになる。
 エートスとは「いつもの場所」が原義である。ルーティンだ。それを行えばうまく行くような方法を古代中国では「徳(德)」と言った。左側の「彳」は「行(道)」の省略形。右側の上部は「直」、すなわち呪飾を施した目でまっすぐに見ることをいう。そして、それに心がつく。「この道をまっすぐに行けば、正しいところに行ける」、それが「徳」であり、「道徳」であり、エートスである。また、エートスから派生したエシックス(道徳、倫理)でもある。
 遠く未来を眺め、そこに正しく行くための道を選択するのが「道徳」であり、エシックスなのである。
 小学校の卒業アルバムですら廃棄しないのに、国家としての重要な書類を廃棄する現代日本の省庁。隠蔽はしたがウソはついていないというエシックスなき官僚や政治家たち。人々の不安をあおり、ニーズのないところにニーズの穴を開け、不要なものまで売り込むエシックスなき経済人たち。さまざまな崩壊を予期しながらも、それに目をつぶり、目先の利益のために邁進する人々。
 現代日本を運営している、かつての武士たちは、いまやエシックスなき人々である。彼らは武道的ではなく、だから武士ではない。そんなことが浮き彫りになる章だ。
 そして最終章は「二十一世紀的海国兵談」である。前章で日本国内の社会に向けられた目は、本章において外との関係に向けられる。外国との関係は外交によって行われる。外交は国家の重要事である。孔子は弟子たちを、まずは外交の専門家(使)として育てた。見えない未来を見る力を「望」といい、聞こえない声を聞く力を「聖」といった。そして、そこに未来への道をつけるのが「徳」であり、それらの力を使って行うのが外交だ。
 それは下手な将棋や碁のように、定石同士の戦いではない。
 内田さんは、外交や軍事にまったく向かない人の代表として東条英機をあげる。彼は「百点答案」を書くことにしか興味がない秀才であるという。定石をたくさん覚えている秀才だ。彼がイメージするのは「百戦百勝」という不可能な軍事的事実だ。そんな不可能なことを可能だと思うのは「過去に不可能であった単称言明から、それが未来永劫不可能であるという全称言明は帰納できない」というヒューム的遁辞が用意されているからだという。
 軍事の要諦は「敵を作らない」ことと「隙を作らない」ことである。ここでいう「隙を作らない」ということは、「次にどういう動線を選択するか予測できない」ということだ。しかし、「百戦百勝」を可能と考える秀才軍人たちは「敵を作ること」と「隙を作ること」をほとんど本務として職務に邁進してしまう。
 東条英機のような秀才型の軍人たちは、生存のために敵を作らないという武道的とは遠く離れた人たちである。そして、残念ながら今の日本の外交もそうであろう。
 エシックスなき政治家に、外交はできない。
 本書は前半において自分のことを考えさせられ、後半で社会のことを考えさせられる。でも、やはりおみくじのようにぱっと開き、そして紙上の内田さんと会話をしながら読みたい。
 ああ、大好きな項がいくつかあるのだが、それに触れている紙幅はなくなってしまった。マタギの工藤さんと歩いたことも書けなかった。実は工藤さんと歩くときに内田さんも誘ったのだが、「ぼくはシティボーイだから」と断られた。マタギの身体性を身をもって知るいい機会だと思ったが、一歩間違うと足を折るような道(実際に骨折する人もいるらしい)。なるほど、内田さんはこのような道をも予見して、危うきに近づかないという「武道的」選択をしたのかとあとで思った。
 本書はいろいろな読み方ができると思います。みなさま、お楽しみください。

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