ちくま文庫

解説『沖縄と私と娼婦』

街や人の「不整合」さ

『沖縄アンダーグラウンド』の著者が名著を読み解く


 復帰まで二~三年と迫った沖縄の―沖縄が「アメリカ」から「日本」になる日―誰しもがどこか浮き足立ったような気配が漂っていたであろう沖縄の街を、二日酔いの佐木が汗を拭いながら歩きまわっている。照りつける太陽、道路から舞い上がる埃、湿った場末のバーの黴臭いにおい、人々の体臭、南国の花の甘い芳香、泡盛の香ばしい香り、未整備が多かった下水の腐臭など、街や人が発するにおいが行間から漂ってくる。それは復興のにおいだったが、沖縄の人々が流した血と涙のにおいでもあった。佐木は一九六八年からそんな街の一つ、コザのアパートで暮らした。
 私は、沖縄の官民一体となった「浄化」運動で消え去った売買春街―戦後長らく残り続けた―の内実と戦後史を描いたノンフィクション『沖縄アンダーグラウンド―売春街を生きた者たち』を書くために沖縄の夜の街を何年間もほっつき歩いた。佐木が当時書きつけたようなささくれだった空気はもちろん薄らいでいるものの、その残り香はじゅうぶんに嗅ぐことができた。佐木が千鳥足で歩いたであろう沖縄の夜の街を、佐木の背中をさがすように私は歩いた。酒の勢いをかりて、場末もいいところの老朽化したスナックのドアを思い切って開けてみると、カウンターに陣取り、店のママにしつこく話しかけている佐木がいるような錯覚を覚えたこともあった。
 佐木が歩いた五十年近く前の沖縄と今の沖縄を比べたら、経済的に豊かになったに決まっている。しかし、沖縄が置かれた政治的状況は変わっていない。「日本」とアメリカは過剰な在日米軍基地負担を沖縄に強いたままだ。日米地位協定も変わっていない。私は佐木が亡くなる一年前に、彼の自宅で長時間のインタビューをおこなったが、沖縄に対する「日本」の態度についは憤懣やる方ないというふうだった。したたか酔った佐木は「今日話すことは遺言だからね」と繰り返していたが、彼が沖縄に身体まるごと漬かったような生活をしたことは彼の血肉となり、その後の作品世界の骨格になっているのだから、沖縄のことは片時も忘れなかったはずだ。
 佐木はなぜ、復帰前の沖縄に二年間ほど住み、沖縄の売買春についてのルポを日本に書き送り続けたのだろうか。『沖縄と私と娼婦』の序章で「迷い」のような独白をしている。

〔わたしが沖縄とかかわりをもつようになって、とりわけ売春に注目し娼婦にアプローチしたのは、しかし娼婦の数が多いことに触発されたからではない。どう説明すればいいか、実は自分でもわからないのだから、したり気にここで動機について語るのはやめる。ただこの本におさめた、五度の沖縄行を通じて書いたわたしのルポルタージュに登場する個々の娼婦の貌から、これまで黙殺されがちだった沖縄の売春と、その象徴するものについて、なにか摑んでもらえるのではないかと自負していることだけは言っておこうと思う〕

 当時の沖縄はいま以上に政治の季節の連続だった。沖縄の人々の念願だった琉球政府行政主席公選の選挙戦や、米軍基地労働者のゼネストなど、対アメリカの沖縄人民の闘いは毎日のようにおこなわれていて、まさに沖縄は揺れていた。「日本」からも多くの記者が入り様子をレポートし、文学者などの表現者も沖縄のことを懸命に語っていた。新左翼諸党派も沖縄へ入り、「反日米帝国主義」闘争を繰り広げていた。
 佐木も同様に行政主席公選選挙や基地労働者の激しい闘争の取材で沖縄に入ったのだが、同時に売春取材に没頭することになる。佐木は声高に自身の取材動機を語ってはいないが、「日本」側からの多くのレポートには沖縄をイデオロギーや政治的観点だけでとらえる傾向が強かったり、理念や観念だけで沖縄戦の加害者である「日本」をつきつめる―それは重要なことなのだが―ものが多く、街の底辺に落ちているような声を凝視することがきわめて少なかった。それに対する反発もあったのだと思う。佐木は売買春街で、わざと嫌われるような下世話な質問も「娼婦」たちに連発しながらも、人間関係を作り上げていく。そうやって彼女たちの本音を拾い集めることで、「日本」からやってきた表現者として独自のスタンスをさぐっていったのではないかと思う。『沖縄と私と娼婦』のあとがきにはこうある。

〔わたしの精神の開けっぴろげさと、それが生業である娼婦の肉体の開けっぴろげさとは、かならずしも嚙みあわなかったが、もともとそれはそういうものかもしれず、ということは、わたしの肉体で彼女らを穿つには彼女らの肉体が広大にすぎてかなわず、しからば彼女らの精神を開けて覗こうとしたものの己れの開けっぴろげさが災いしたのかもしれず、それはそのままわたしと沖縄の関係0 0 であるのかもしれない〕

 佐木が本書の中で最初にたずねる娼婦は、那覇の栄町にある「旅館」(ちょんの間)にいた女性だった。仕事部屋には当時の皇太子夫人の写真が飾られていて、驚いた佐木は質問を重ねていくが、娼婦のあっけらかんとした答えに、日本の捨て石にされた当時の沖縄に天皇家の写真が貼ってあるわけないだろうという思い込みが、いとも簡単に覆される。こうした街や人の「細部」に見える「不整合」なものとでもいおうか、「日本」の左派的観点だけからは想像しにくい風景やなにげない会話を、佐木は徹底的に足をつかって溜めていく。
 私も「浄化」運動の中核をになった女性団体の事務所をアポなしでたずねインタビューをした。事務所をたずねたとき、私はきつねにつつまれたような気持ちになった。数人の女性たちがいて、反米軍基地運動で有名な政治家のうちわをつくっていた最中だったのだ。私は戸惑った。反基地という「人権」を訴える人たちが、娼婦に対しては警察官らと街を練り歩き、売春をすることは女としてゆるせないという、悪意のような感情を塗り込めたビラを各売春店に投げ入れていったという行為が、なんとも「不整合」だと思えたからだ。人間に対して害虫駆除ではあるまいし、「浄化」という言葉をためらいなく使うのも、人権団体から感じた「不整合」性だった。
 拙著『沖縄アンダーグラウンド』の中で、佐木は次のように私の質問に答えている。ちなみに佐木が亡くなったのは、拙著の刊行三年前ぐらいだった。

〔私が製鉄所で働いていたころ、沖縄の戦争スクラップには不発弾が混じっているため、それが爆発して何人死んだということを聞いていました。年間一〇人ほど、スクラップヤードで死者が出ていたと記憶しています。一九六八年一一月に沖縄に取材に行ったときに琉球政府の資料を見たら、一九五六~五七年頃は、スクラップ産業が黒砂糖を抜いて総生産額の一位になっていた。そして新聞報道で、スクラップを掘る作業中に一〇〇〇人近い子どもの死者が出ているということもわかった。カネのため、生きるためにはここまでしなければならないのかと衝撃を受けました。僕が最初にショックを受けたのは売春街ではなかったんです〕

 つまり佐木はもともと理論やイデオロギーから沖縄に関心を持ったわけではなく、沖縄の戦後を生き抜く人々の血と汗と命を、高校を卒業後に働いていた製鉄所で目の当たりにしたのだ。であれば彼が売買春の街に吸いよせられたのも当然の帰結だろう。
 私は、沖縄で広く長く読まれることになった拙著『沖縄アンダーグラウンド』を佐木に手渡せなかった。そのことが後悔となって私の脳裏にこびりついている。インタビュー中、焼酎をあおるように飲み続けた佐木の「これは遺言ですからね」という言葉を思い出すたびに、私は今はゴーストタウンと化した沖縄の元売買春街に佐木の大きな背中を見た気になるのである。

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