筑摩選書

素朴な現実観はここに覆される!

普段あたりまえのように使っている「現実」という言葉。しかしそこにある認識は、どれくらいあたりまえなのでしょうか。数学と哲学という専門を異にする著者二人が協同し、この現実を現実たらしめている構造に迫ったのが本書。長年にわたる対話と研究の成果は、わたしたちの固定観念を根底からゆさぶり、変えることになるでしょう。本書の「序」を公開いたします。どうぞご一読ください。

 現実とは何か? このようなことをあらためて問う人はあまりいない。仮想現実(virtual reality)などを念頭に置きつつ、「現実と非現実」の区別を問題にするといったことがあるが、その場合でも、「現実とは何か」については、「自明=あたりまえ」としてすでに前提しており、あらためて問題にしないことが多いのではなかろうか。「現実を見ろ」とか「とにかく現実は現実なんだから認めなければ」などと言われることもあるが、その場合でも、まず「現実とは何か」を説明することから始めることはない。「現実とは何か」はすでにわかりきったこととして頭から前提されているのである。だがそこで、われわれがもうすでに特定の現実観を前提にしてしまっているとしたらどうであろうか。そして、「現実」というものを必ずしもそのように見る必然性がないとしたら?
 われわれは、何らかの「自明」と見なされている現実観にもとづいて現実を見ているのであり、 それがわれわれ自身のものの見方の「枠組み」を成してしまっている。われわれはいわばそのフィルターを通して現実を見ているのであり、そのなかでしかものを考えられず、そのなかでしか行為できないような状態になっているのではなかろうか。われわれが「現実」というものをどう理解するかということが、われわれの「ものの見方」だけでなく、それにもとづいて行われるわれわれの行為全般、ひいては生き方に至るまでを左右しているのである。

 この小さな書物は、科学一般、学問一般に変革を促すささやかな提案の書である。それだけではない。およそ「現実」というものにかかわって生きるわれわれにとって、当の「現実」というものの考え方・捉え方・イメージを変革していくことを提案している。つまり本書は、「ものの考え方」と、「われわれの生き方」の両方にかかわる根本原理を探究している。(本書の叙述が、およそどのジャンルにもうまく収まりそうにない奇妙なものであるのは、そのためである。)
 もちろん、これが「現実」についての唯一の原理であると主張するつもりはない。しかし、かなりの程度普遍的な原理ではないかとわれわれは思っている。この九年ほど、われわれ著者はこの根本原理について対話を続け、その射程や含意を吟味してきた。この作業の帰結が本書である。対話のなかで、この原理は、われわれ著者にとってはかなり明確な形をとるようになっているのだが、既存の言葉でそれを語ることは容易ではない。われわれは「非規準的選択」や「置き換え」といった概念を使いながら、様々な事柄に即してわれわれの考えを実地に試してみることにより、この原理を描こうとしている。それらはいずれも、さらなる思考の糸口を手探りしてゆく最初の試みにすぎない。

 本書は、「現実」というテーマをめぐって、数学者と哲学者が九年間にわたって行ってきた対話の成果である。詳しい経緯はあとがきに譲るが、あるきっかけでこの対話を開始して以来、著者たちは「なぜこれほど話が通じるのか?」をいぶかしく思ってきた。その答えについて、いまではこう思っている。それは著者たちがいずれも、学問分野としての数学や哲学を対象としているというより、数学や哲学を通して、いつも「現実」について考えているからではないか、と。「数学」や「哲学」というと、世間ではむしろ「現実離れ」した学問の代表とも思われている。しかし、筆者の一人である田口が主に取り組んできた「現象学」という哲学の一分野は、「事象そのものへ!」というそのモットーからもわかるとおり、とりわけ現実に即していこうとする志向が強い。その田口が西郷との対話を始め、数学、とりわけ圏論についての西郷流の説明を聞いたとき、それが現象学的な現実の捉え方と深く通じあうことに気づいた。(圏論が、いわゆる「数」さえも前提しない、そのもっとプリミティヴな数学的概念である「射(矢)」<arrow, morphism>から出発して数さえも再構成できるということは、田口にとっては衝撃だった。)西郷の側の実感も同じだった。現象学と圏論的思考が通底するということは、著者たちには、見た瞬間にわかるほど自明だったのである。そしてその実感は、著者たちにとって、互いが追い求めていた「現実の手触り」のようなものと結びついていたのである。

 こんなことを言うと、「現象とその数学的モデルを混同しているのではないか」という批判が専門家から寄せられそうである。その文脈では、現象からその数学的モデルを切り離すことは大事なことであり、両者の混同を注意深く排除することは重要なことである。また、数学の発展においても、ある概念がすでに知られた現象のモデルとなっているか否かにかかわらず、興味の赴くままに研究を進めていくことはもちろん大切なことである。こうしたことから、「数学は現実離れしている」という印象が生み出されてきたのかもしれない。
 しかし、それにもかかわらず、著者の一人である西郷はその数学や数理物理の研究、あるいは数多くの他分野の研究者たちとの共同研究を通して、次のような強い実感をもつようになってきていた。すなわち、たとえどれほど「数学から遠い」と思われる分野であっても、また自身が数学に対して苦手意識をもっている研究者であってさえも、現実に真正面から取り組もうとすれば、それは結果として「数学になってしまう」のではないか、という実感である。
 実際、このようにして生み出された数学の分野は枚挙にいとまがないし、他の分野の人々から見て「現実離れ」しているように見えても、数学者が数学的概念に取り組むその思考のあり方は、少なくとも本人からすれば「現実との格闘」以外の何ものでもない。むしろ、数学とは、「徹底的に」現実に即していこうとするところに、不可避的に露呈する思考のあり方そのものなのではないかと考えるようになってきたのである。この実感は、西郷が哲学者である田口との対話を行い、本書を執筆する間にますますクリアになってきた。数学は「現実離れ」どころではなく、数学について考えることと現実について考えることは一体なのではないかと考えるようになってきたのである。

 こうした実感がどこから由来してくるのか、その根拠を一つ一つ探り当てていくことから著者たちは出発した。その最初の手がかりが、現代物理学における「量子場」の概念であった(第一章)。それを通してわれわれは、現実の現実たるゆえんを実体的な何かに求めるという考え方を吟味した。「粒子」という究極的な実体があると考えるのも、粒子がそこから現われ出てくる「場」を究極的な実体と見なすのも不適切である。そこに見られる事態を正確に言い表そうとするとき、「不定元」という数学的概念が浮かび上がってくる。哲学的にいえば、「実体」的なものに囚われがちなある種の性癖からわれわれの思考を脱却させる装置として、数学的概念が機能するのである。数学とは、われわれの思考を縛るものであるより、「問いがなければ答えがない」という仕方で、われわれの思考を「動かす」ものなのである。
 こうして明らかになりはじめた「数学」なるものに対して、さらに明確な輪郭を与えようとしているのが第二章である。この章では、「数学とはいったい何なのか?」という問いにストレートに取り組んでいる。数学には、一般に静 スタテイツク 的なイメージがつきまとい、「実体」に親和的とも思われがちだが、それがどうしてそうではないのか、を数学が立ち上がる場面から説き起こそうとしている。そこでわれわれが提案するのが「非規準的選択」という概念である。非規準的選択とは、簡単に言えば「何かを選ばなければならないが、一義的に決まるわけではない選択」を意味する。このような選択は、むしろ数学とは無縁であると考える読者も多いかもしれない。しかし、われわれはこの非規準的選択こそが、「それが消えることを通して」数学の普遍性・一般性を可能にするものであることを論じていく。これはいわば、数学を根本的にダイナミックなものとして捉えなおそうという試みである。ここで鍵となるのが「置き換え可能性」である。すなわち、もともとは置き換え不可能・比較不可能な個的なものを置くということが、その出来事自体を「消す」ことによって、そこで置かれた個的なものを他の諸々の項と置き換え可能にするということが起こっているのである。この「一般構造」を通して、時間、空間、真理をも新たな仕方で捉えなおすことが可能となる。こうして、「数学とは何か」という問いが、「現実とは何か」という問いと重なってくるのである。
 この重なりを直接に問題としているのが第三章である。ここでは、その「同じ一つの問い」を問うために、現象学と圏論について踏み込んで論じている。現象学は、現象の動きや変と、そのなかで「変わらないもの」とが織り成す「現われの構造」を問題とする。これと通じ合うのが、圏論によって可能となる「同じさ」の捉えなおしである。圏論を通して「同じさ」は、最終的にネットワーク(さらにはネットワークのネットワーク)へと捉えなおされてゆく。こうしてわれわれは、「同じさ」に固着する思考から、「自然変換」と呼ばれる変換そのものへと軸足を移していくことが可能になる。このことは、数学についての数学とも呼ばれる圏論が、第一章や第二章で論じてきた現実についての思考のあり方、すなわち「個々のものに固着しないが、個々のものをおろそかにするわけでもない」という思考を体現するものであることを意味している。
 ここから第四章では、こうした数学的思考から、そのうちに含まれる倫理的なポテンシャルを解放することを試みている。「私」という語のポイントが、何かを固定するより、むしろ「置き換え可能性」にあるという点を指摘し、「私」という語の理解の核心に自然変換がある、と論じていく。この「置き換え可能性」を理解することが、「倫理」につながる。「置き換え可能性」とは人間を単に置き換え可能な部品と見なすことではない。どこまでも自己の立場に立つということが、「置き換え可能性」の構造を通して、ただちに「他者を尊重する」ことにつながる。自己と他者が置き換え不可能なかけがえのなさをもつということそれ自体が、ここでいう「置き換え可能性」の構造を通してはじめて理解されうるのである。ここでも鍵となるのは、「個々のものに固着しないが、個々のものをおろそかにするわけでもない」思考である。「私」を実体化することから離れて、「不定自然変換」と呼ばれうるあり方へと立ち戻ることが要請される。総じて第四章では、実体から変換へ、同じさから変換への思考の転換が強調され、最終的に「自由」へと思考の軸足を移すことが論じられる。
 これを受けて、第五章では「自由」の問題に踏み込む。ここではまず、決定論と因果性との違いを論じた上で、依存と自由の関係を明らかにする。そこで再び、「非規準的選択」と、われわれが「現実の一般構造」と呼ぶものが浮かび上がってくる。さらにこの章では、この現実の一般構造を「非可換確率論」を通して掘り下げる。この考察は、「普遍性とは自由な変換可能性そのものだ」といった考えへと至る。こうして、「自由の方から現実を捉えなおす」可能性が開かれてくるのである。

 本書の元になる対話を始めた当初から、「数学とは現実に即した思考である」という確信はあったが、最初はわれわれもどこへ辿り着くのかはわからなかった。しかし、行き先がわからないまま、できるだけ事柄に即してそれを問い深めていく努力を続けた結果、「自由」という思わぬ地点にまで突き抜けることができた。
 このような思考の可能性を、われわれ二人だけにとどめておくのではなく、ぜひ多くの人々と共有したいと思ったのが、本書を上梓しようと考えた理由である。これは単なる始まりにすぎず、本書から始まる「思考を自由にする変換」の営みが、次々に変換の連鎖を生み出し続け、それが各所で現実を縛る様々な拘束から、現実そのものを解放してゆく機縁となることをわれわれは望んでいる。

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