ちくま学芸文庫

記号論講義:日常生活批判のためのレッスン
自著解説

セクシーなアイドルを起用した新商品広告、テレビから絶え間なく流れでてくる報道ーー現代の社会に生きていれば、モノやメディアが発信してくる記号の嵐から逃れられない。それに飲み込まれずに日常を生き抜くためには、どのような力が必要なのか? セミオ・リテラシー、つまり意味批判力を鍛えるための11レッスンを紹介する。

 本書は、2003年10月に刊行された私の著作『記号の知/メディアの知―日常生活批判のためのレッスン』(東京大学出版会 初版2003年10月21日刊408頁)に細部の手直しを加えたうえで『記号論講義―日常生活批判のためのレッスン』と改題し、 ちくま学芸文庫から刊行するものです。旧版は、さいわいにも多くの読者に恵まれ、大学の講義や企業のセミナー等で教科書や参考書としても使われて、学術書としては例外的に版を重ねました。しかし、なにぶん高価な単行本(本体価格4200円)であったので、とくに若い読者の皆さんに購入していただくには、著者としては申し訳ない気持ちがありました。今回、文庫化が実現し、一般読者の皆さんに気軽に手にとっていただけるようになったことに著者として安堵し喜んでいます。旧版は横書きでしたが、今回縦書きとなったことも、読み物として読んでいただくには好都合とおもいます。
 
 旧版刊行からだいぶ歳月が経過したので、私の現在の視点からふり返って、本書のねらいと位置づけをあらためて書いておきたいとおもいます。
 
 本書は、大きく言えば、メディアを対象とした記号論の書といえます。メディア記号論という分野の本だと言ってもまちがいではない。
 ただ、読んでいただけばすぐに分かることですが、この本におけるメディアと記号論との関係は、記号論が基礎理論で、メディアは分析対象ということではないのです。両者の間にはより本質的な結びつきがあって、メディアが可能にした知が記号論、メディアの理解にとって必ず必要な学問が記号論であるというのが本書を貫いている主張です。メディアが書きとめるのが記号であり、メディアは記号の作用から成り立っていると考えるのが、 私の認識の基本的な立場なのです。旧版ではこの点を強調するために、「記号の知/メディアの知」というタイトルを掲げたのでした。
 今回「記号論講義」と改題したのは、記号論という学問をもういちど21世紀の学問としてきちんと位置づけ直す本としてあらためて広く世に問いたいと考えたからです。

 20世紀以降の私たちの文明は、それまでの人類の生活とは大きく異なります。
 19世紀に発明された写真[英 photograph]、電信テレグラフ[仏 télégraphe]、テレフォン[英 telephone]、フォノグラフ[英 phonograph]、シネマトグラフ[仏 cinématographe]、などのメディア技術が、人類文明を大きく書き換えはじめたのが〈1900年〉頃です。 私は、この大転換を、「アナログ・メディア革命」と呼んでいます。
 本書4章で説明されるマクルーハンが言ったように、メディアは人間を拡張して文明の 感覚基盤を変容させました。人類文明は20世紀には活字と書物の文明圏である「グーテ ンベルクの銀河系」から遠ざかり電気メディアの星雲―「マルコーニの星雲」―へと接近していった。ラジオや映画やテレビやインターネットが発達し、マスメディアが大衆の欲望をつくり、ポップ・カルチャーが生まれ、本書の7章で詳しく説明したように広告が20世紀の消費資本主義のベクトルとなりました。

 いま列挙したメディア技術の命名には、例外なく「~グラフ-graphe(書字)」、「テレ~téléー(遠隔)」という接頭辞・接尾辞が使われていますね。それは、技術の論理からいえば、メディアとは、機械が痕跡を書く〈書字(グラフ)‐テクノロジー〉であり、電気信号をつかってメッセージを送受信する〈遠隔(テレ)-テクノロジー〉であることを示しているのです。私は、それらのメディア・テクノロジーを総称して〈テクノロジーの文字〉と呼んでいます。メディアとは、人間ではなく機械が読み書きするようになった文字、人間には直接には読み書きが出来なくなってしまったテクノロジーの文字の問題なのです(この問題について、詳しくは、本書とおなじ筑摩書房刊のちくま新書『大人のためのメディア論講義』を併せて読んでください)。
 メディアというテクノロジーの文字によって、人間の心的活動が、〈記号〉として書き取られ、送受信され、人類の生活を方向付けるようになったのが現代です。これが20世紀以降の人間のデフォルトの日常生活です。そのような現代人の「社会における記号の生活」を研究する「一般学」として20世紀の初頭に提唱されたのが「記号学」だったのです(これは本書の2章で詳しく説明したとおりです)。
 
 ここで20世紀以後のメディア文明における学問の成り立ちについて少しお話ししましょう。
〈1900年〉頃には、パースとソシュールの記号論・記号学のほかに、フロイトの精神分析、フッサールの現象学のような、それまでにはなかったまったく新しい学問がほぼ同時にいっせいに提唱されました。とても大きな知のパラダイムシフト―哲学者のミシェル・フーコーのいう「エピステーメー(知)」の大転換―が起こったのです。 
 これは、今お話しした、メディアの革命と深く結びついています。文字と書物の知による人間の理解から、テクノロジーの文字を使った、人間の研究へと、知の大転換が起こったのです。
 そのとき、人間における意識無意識の問題が根底的に問われることになりました。
 人間が文字を読み書きする文化では、文字を読み書きする意識が知の中心にあります。文字と書物が意識を媒質にして知と人間とを結びつけていました。
 ところが、人間の意識の閾より下の時間幅でカメラはシャッターを切って写真を撮るようになります。その像をあとで見て人間は思い出という意識をつくり記憶を固定するようになる。フォノグラフは人間の書字では記録しつくせない音響や音声の流れを記録して時間意識を再生するようになります。映画は、人間には捉えきれない静止画の連続投射から運動を視ているという人間の意識を生みだすようになる。メディア革命以後は、人間の意識よりも下の無意識のレヴェルでテクノロジーの文字が人間の意識を産み出して方向付けるようになったのです。
 フロイトが電話をモデルに精神分析の治療を考案し、映画をモデルに心の装置を構想する。フッサールがフォノグラフが再生するメロディーの聴取経験をもとに現象学的な時間意識を研究する。こうしたことは、文字と書物が意識のメディウム(媒質)であった時代から、テクノロジーの文字がヒトにおける意識と無意識の境界に働きかける20世紀へと知の条件が大きく変化したことを示しているのです。〈1900年〉の日付で刊行されたフロイトの『夢判断』[ただし、じっさいの出版は1899年]が「無意識」の理論化を試み、おなじく1900年の日付で出版されたフッサールの『論理学研究』が「意識」の現象学的な記述を試みたことは、メディアの革命が提起した認識論的な問題状況を色濃く反映するものだったのです。
 
 本書の2章で説明しましたように、ソシュールの言語記号学の提唱が20世紀の記号の知の出発点となりました。文字と書物によることばの研究という19世紀の歴史言語学から、音声書写(フォノグラフィー)技術によって話しことばをリアルタイムで研究する言 語記号学への転換、それがソシュールの言語学革命でした。ことばは人間にとって理性(ロゴス)の中心器官ですから、ことばの知が文字と書物を離れて、メディアテクノロジーにもとづく書写技術によって研究されるようになったことは、非常に大きな認識論的なインパクトを生んだのでした。意識の活動と考えられていたことばに働いている記号の無意識が明るみに出されて、人間についての理解が大幅に書き換えられるようになった。さらに、その知の革命は、ことばの研究を超えて、文化や社会の研究全般に衝撃をもたらしました。それが20世紀を通して進行した構造主義やポスト構造主義という認識の運動へとつながっていったのです。
 
 本書では、いま描き出したようなメディアと知の転換の見取り図をもとに、記号論や記号学と呼ばれた記号の知が20世紀をとおしてどのような知のインターフェイスを作りだしていったのか、その問題系を11章にわたって追い、レッスン形式で人間の意味世界の変容を理解するための方法を説いたものです。
 
 記号論の基礎理論については、2章でソシュールの記号学を、3章でパースの記号論を、詳細に解説しています。4章では、なぜメディアが、技術・記号・社会という人間の文明のもっとも基本的な三次元を構造化する活動であるのかを、ルロワ=グーランの先史学やスティグレールの技術哲学を援用しつつ説明しています。そして、コミュニケーション・ テクノロジーの問題系を、ソシュールのことばの回路、シャノン・モデル、ヤコブソンの六機能図式を重ねて理解する必要を説き、マクルーハンの「メディアはメッセージ」の定式を説明しています。本書では、この三つの章が、記号論とメディア論の理論的マトリクスとなっています。そこは知識が密に詰まっている部分ですから、最初に読むと抽象的でハードルが高すぎるように感じるかもしれません。そのように感じたひとは、そこは後回しにして、具体的な分析を扱う他の章から読み進んで、随時これらの章にもどって原理論を学ぶという読み方も十分可能です。著者の狙いとしては、2章はソシュールを説明しつつ20世紀の構造主義の方法への導入を行う、3章はパースの基礎理論を概説しつつ記号論と認知科学や脳科学との接点を説明する、そして、4章は記号論とメディア論との表裏の関係を人間文明の原理のなかに位置づけるという、それぞれ明確な意図を持って書かれています。
 他の章では、モノと現実の記号化(1章)、建築や遠近法にあらわれる場所と記号の関係(5章)、都市の構造と都市写真(6章)、欲望資本主義と広告のレトリック(7章)、身体のイメージ化と記号支配、身体に働きかける権力の問題(8章)、国民国家と象徴政治、スポーツと遊びの象徴作用(9章)、現代という歴史の時代とテレビ・ニュース(10章)、VR、サイバースペース、インターネット、ポスト・ヒューマン(11章)と、それぞれの章が、20世紀の後半から21世紀の初頭にかけてのメディア化した世界における意味の問題がどのように現れるのか、記号とメディアの問いの拡がりを俯瞰し、それを認識する視座をもつことができるように書かれています。
 それぞれの章では、その問題に関わる代表的な理論を参照しながら、しかし、決して既存の学説の受け売りではなく、私なりのやり方で独自の問題の構図のなかに概念を捉え返したうえで、私たちに身近な事例を集めて具体的な分析の俎上にのせ、記号論とは何を説明するものなのかを、レッスン形式で考えていくというスタイルをとっています。
 
 この本には、私がちくま学芸文庫で刊行している『現代思想の教科書』で扱われる現代思想の思想家たちも多く登場します。ソシュール、パース、ルロワ=グーラン、スティグレール、マクルーハン、ヤコブソン、レヴィ=ストロース、デリダ、バルト、フロイト、ラカン、フーコー、ブルデュー、バフチン、リクール、セール、ドブレ、ドゥルーズ、その他の現代の思想家たちです。現代思想と記号論とはどんな関係があるのかと思う読者もいるかもしれませんが、記号論やメディア論が、20世紀をとおして、人文科学・社会科学の先端的な思想とどのように具体的に結びついているのかが分かるはずです。そして、記号とメディアの問いが、哲学、言語学、文学理論、美学理論、精神分析、脳科学、認知科学、情報科学、等と、どのような相互の位置関係にあり、人間の社会や文化の何を具体的に説明するものなのかも明らかになるはずです。
 
 本書の冒頭の「はじめに」で宣言しているとおり、この本は「意味批判」の書です。
「意味」という問題を理解することは、どのようにすれば可能か。そのための知識と方法を説く書物です。意味批判とは何かを抽象的な議論ではなく、具体的にどのようなことなのかを、読者の皆さんに実感してもらうために、具体例をもとにしたレッスンが行われるのです。
 いずれも1990年代から2000年代の事例を同時代の題材としているので、新しい読者の皆さんは、ああ、もうこれらは過去の事例なのではないか、と思われるかもしれません。はい、たしかに、皆さんが、目の前で起こっている今日現在の事例の手っ取り早い説明のための知のマニュアルを本書に求めるとすれば、その点に関しては、この本はご期待に添えないかもしれません。
 私としては、次のように考えています。
 17年前に「はじめに」に書きましたように、この本はもともとマニュアルとしてではなく、知の方法の書として書かれています。では、知の方法とはどのようなことなのでしょうか。
 いかにエフェメラルな(=儚い)メディア現象を考察の俎上に載せるにせよ、そのなかに普遍的な知の端緒を見いだすところに、批判や批評(ともに「クリティーク」がもとの言葉です)という認識の態度はあると私は考えています。「クリティーク」とは、それは端的に、考察の対象に対して、それが何であるのかを自分で考えて、自分の力でその本質を正確に理解することができるようになる、ということです。自分で考えて、自分の力で、というところが重要です。そして、初心者には逆説的に聞こえるかもしれないのですが、自分で考えて、自分の力で、理解することができるようになるためには、適切な理論と知識を勉強することが必要なのですね。なにごとも、あらかじめすでにある答えを、手軽に、手に入れようなどという態度でのぞむと、自分で考えて、自分の力で、という知の態度から遠ざかってしまいます。
 広告のコピーやCMやテレビ番組のようなそれ自体はエフェメラルなメディア社会の現象を取り上げるときにも、記号やメディアの現象の本質を表しているような優れた題材を厳選してとりあげ、芸術や美術の作品と同列に扱って考察の対象としていることも、そのような批評の態度と関係しています。すぐれた芸術作品はそれ自体が、何かを批評している。すぐれた広告やCMも同じように私たちの世界の意味を批評している。その批評を芸術や文学や広告の個々の領域にとどめておくのではなくて、世界の意味を摑むための方法として一般化して、私たち自身の生活世界を考える手がかりにしていこうというのが、「日常生活批判のためのレッスン」の狙いなのです。
 
 うーん、それでは抽象的すぎて分からん、とおっしゃるかもしれないですね。
 それでは、幾つかの例を示しましょう。
 たとえば、1章では、三つのモノのあり方をとりあげていますね。三つ目のモノのあり方、メディアの表層にうかぶモノのあり方としてウォーホルのパンプスを採り上げています。そして、ボードリヤールの「モノは消費されるためには記号にならなければならない」という定式を引用しています。2020年の今であれば、どのようにこの問いを更新することができるでしょうか。例えばですが、現在では、モノのインターネットといわれるように、すべてのモノが情報を担っています。そうすると「モノは消費されるためには情報にならなければならない」とも考えることができる。1章のレッスンのもう一歩先に問いを進めることができそうです。そして、あなたが問題をステップアップさせたときに、さらに次に問題となるのは、どのようなことでしょうか。私なら、次のように問いをさらに延長させます。「モノを消費するためには、ヒトもまた情報にならなければならい」、と。 amazonなどのヴァーチャル・モールでのネットショッピングやレコメンデーションシステムのことを考えてみてください。そうすると次に「記号」と「情報」との関係はどうなっているのか、と考えることになりますね。それは、11章で触れた「情報記号論」の扱う問題です。(これは、東浩紀さんとの共著『新記号論』ゲンロン2019年刊の中で論じたことです)。
 6章であつかった都市のイメージについていま考えるとすれば、人びとは頭の中にある想像的な地図だけでなく、GPSによって位置情報をつねに捕捉され、カーナビに誘導されて都市を移動し、スマートフォンでグーグルマップに導かれながら町を歩いている、というのが日常生活になっていますね。そうすると、ここにも記号情報との新しい関係が見えてきますね。そうすると、スマホを持って町を歩いているとはどのようなことなのだろうか、と新たな問いが浮かんできますね。そうしたら、つぎに、問いをさらに発展させるには、どんな方法があるだろうか、と考えますね。たとえば、私なら、この本での写真家荒木経惟と同じような役割を果たしてくれるアーティストがいるだろうか、と考えます。例えば、友人のメディアアーティスト藤幡正樹さんのField-WorksというGPSを使った作品シリーズなどにはそのようなテーマがあるのでヒントが見つからないか、とか考え始めますね(このテーマは、次の英語の本の担当章で書きました。Hidetaka ISHIDA “The invention of Fujihata” in Art in the 21st Century Hongkong Osage 2020)。
 8章では、身体、イメージ、権力についてレッスンを行いました。そこも同じように現在のメディア環境に合わせて問いを進化させることができますね。私たちは、スマホで自己撮り(セルフィー)してナルシシズムを充足させ、自分のカラダを考えるときにも、AppleWatch のようなウェアラブルコンピュータを身につけて自己の数値を管理し、自己目標を設定するなどしていたりしますね。そのようなセルフコントロールの問題と、ハイパーコントロール社会と呼ばれたりする監視社会の進行とは結びついていますね(これも、『新記号論』で論じたことです)。
 以上は、この本に書かれてあることの延長上で、21世紀になって起こってきていることをどのように考えればよいのかという例題と、その解答例です。
 
 このように、この本を手がかりにして、この本が書かれた時代よりもさらにメディアが進化し、より完璧にメディアに包囲された世界に住んでいる、2020年代の私たちの「日常生活批判」のための手がかりをつかんでもらえればというのがこの本をあらためて文庫本として世に送り出す著者の思いです。
 最後になりましたが、『現代思想の教科書』と同様に、本書をちくま学芸文庫に収めるにあたって大変お世話になった筑摩書房編集部の天野裕子さんに心から御礼申し上げます。

2020年6月 著者

 

関連書籍