ちくま学芸文庫

二十年ぶりに感じること

労働経済学の名著『学校と人間』を二十年ぶりに増補の上、ちくま学芸文庫より刊行された猪木武徳さんによる自著解説を、PR誌「ちくま」7月号から掲載します。

 ちょうど二十年前に書いた本が、加筆修正のうえ装いを新たに文庫本として刊行されることになった。実に著者冥利に尽きる。かつて読売新聞社から「20世紀の日本」シリーズの一巻として執筆したとき大学の行政職で多忙を極めていたため、執筆を楽しむという余裕はなかった。同シリーズの編集委員の一人としての責任上(ほかの執筆者への原稿督促もあり)必ず書き上げなければならないというプレッシャーも影響したためか、仕上がりに今一つ納得のいかないところがあった。
 「ちくま学芸文庫」として増補の形で復刊してもらうに際して、基本的には初版の内容と構成はそのままとし、労働経済学の研究成果を盛り込み、記述の論理を今少しスッキリさせるとともに、脚注と参考文献を十分に加えて読者のさらなる関心に応えられるようにした。その結果、量的には三割くらい増えただろうか。
 競争による「立身出世主義」は、日本だけでなく欧米の近代民主制社会を特徴づける社会風土(mores)となった。日本の「立身出世主義」が欧米のそれとやや趣を異にしていた点があるとすれば、それは「機会の広さと厳しい競争」に求められるのではないか。この点を具体的に確かめてみたいと考えたのが執筆の動機であった。
この本に込められたメッセージはいくつかある。人材の育成は長期的な問題であり、人々の精神的・物的生活の豊かさと深く結びついている。物質的な豊かさに限っても、一国が長期的にはどのような人材を育てつつ選別していくのか、その慣行や教育システムが豊かさに与える影響は強調してもし過ぎることはない。近年筆者が懼れるのは「即戦力」や「実用性」への関心の異様な高まりである。教育・訓練の長期的な意味と効果を考える場合、われわれの視野を「短期化」させてはならない。そのためにも、二十世紀の日本経済と日本の人材育成の方式を振り返っておくことが自己確認としても必要だろう。
 技術の偏重、製造業の軽視、近年の短期的な「成果主義」に基づく人事政策は、長期的な競争に基づく人材の評価のシステムを突き崩す方向へと進んでいるようにみえる。日本は、自らの持てる「宝」を捨てようとしてはいないだろうか。
 長期的に見た場合、たしかに技術革新は生産性の上昇を可能にしてきた。しかしその可能性を現実のものとするために、その技術と関わる人間の労働がいかに重要な役割を果たしているかということを見逃してはならない。
 たとえばこの点について、筆者は一九八〇年代の半ば、日本、タイ、マレーシアの三国の工場を対象に、セメント製造業の生産性を比較したことがあった。当時いちばん古い設備で操業していたのが日本の工場、自動化の最も進んだ最新鋭の装置を用いていたのがマレーシア、そしてその中間に位置したのがタイの工場であった。これら三つのプラントの年間生産量を従業員数で割った「労働の生産性」、つまり何名の従業員が年間何百万トンのセメントを生産しているのかを測定したところ、いちばん自動化の程度の低い装置で生産している日本の工場の労働生産性が最も高く、マレーシアの工場の実に三倍近くにも及ぶという調査結果を得た。資本設備では劣る日本が数段高い生産性を発揮していたのだ。
従業員の技能を高める教育・訓練の方式、「やりがい」を生みだす評価と報酬の制度や昇進のルールにおいて、日本と他の二国との間に大きな違いがあった。技術を生かすのは、最終的には人間の力量、つまり技能次第ということなのだ。それは楽器と演奏者の関係にたとえることができる。名器とされる楽器が、素晴らしい音楽を生み出すためには優れた演奏者を必要とするということと同じなのだ。
 労働の目先の成果を求めて競争すれば日本経済に活力はよみがえるといった「視野の短期化」によって、日本の長期的な経済成長力が阻害されないことを強く願いつつ、本書の増補改訂の仕事にあたったことを付記しておきたい。