筑摩選書

横浜中華街みたいな街は、中国にはない!?

山下清海『横浜中華街――世界に誇るチャイナタウンの地理・歴史』(筑摩選書)の「はじめに」を公開します。日本有数の観光地「横浜中華街」はどのようにしてできたのか? どうして魅力的なのか? その秘密に迫る本書。 まずは、「はじめに」をお読みください(なんと中国にはこんな街はないそうです!)。

 日本をはじめ世界各地のチャイナタウンの研究をしている私は、学生たちを連れて、横浜中華街で地理学の調査実習を行ってきた。いつも、実習を終えて解散する前に、学生たちに横浜中華街の感想を尋ねることにしている。
「非常に活気があって、華僑のバイタリティを改めて感じました。」
「中国料理店の数が多く、どの店に入ってよいか迷ってしまいました。」
 などと話す日本人学生。それに対し、参加していた中国人留学生に、「横浜中華街はどうだった?」と感想を求めると、
「横浜中華街は、とても興味深かったです。だって、中国にはこのような街はないですから。」
との答え。それを聞いた日本人学生は、不思議そうな表情をしたまま固まってしまった。
 このエピソードは、2003年前後の話である。日本人の中には、無意識のうちに、横浜中華街は「中国の街」だと思い込んでいる人が少なくないのではないか。横浜中華街は、多くの日本人が長い間抱いてきた「中国」イメージを具現化した街である。それこそが横浜中華街の魅力であり、特色でもある。
 世界各地には、多数のチャイナタウンがある。現地の人びとや旅行者からチャイナタウンとして認知されているところだけでも、約100を数える。そのうち私が訪れたチャイナタウンは70あまりである。それぞれのチャイナタウンは、その土地の歴史、社会、環境などの影響で、その土地固有のローカル色をもつ。決して中国の街が、そのまま海外へ移動したという単純なものではない。
 横浜中華街、神戸の南京町、長崎新地中華街は、日本三大中華街とも呼ばれ、いずれもその地域の観光で重要な役割を果たしている。このため、多くの日本人は、世界各地のチャイナタウンも観光地となっていると思い込んでいるが、そうではない。横浜中華街も、終戦直後はヤミ市として栄え、その後外国人船員やアメリカ兵相手の「外人バー街」となった街だ。その観光地化が急速に進んでいったのは、1972年の日中国交正常化に伴う中国ブームの到来以後なのである。
 
 幕末の開港で横浜に外国人居留地が建設され、すでに中国で貿易活動を行っていた欧米の貿易商らとともに来港した華僑が、自らの伝統文化を保持しながら、異文化の日本社会に適応してきた。横浜中華街には、1859(安政6)年の横浜開港以来の華僑、日本人、欧米人の交流の歴史が蓄積されてきた。当然、繁栄の歴史ばかりではなく、バブル経済崩壊後、現在に至るまで、日本経済の不況の下で、横浜中華街の試練は続いている。今日では、改革開放後、中国からやってきた「新華僑」と呼ばれる人たちが経営する中国料理店が急増し、「老華僑」が経営してきた老舗中国料理店の中には姿を消したものも多い。
 横浜中華街は、決して華僑だけの街ではない。そこは、華僑が、地域の日本人社会および横浜市などの行政当局と協力しながら作り上げた街である。異なる文化をもつさまざまな人たちが、同じ地域で生活する状況は、世界的にはどこでも一般的に見られることである。最近の日本も、多文化、多国籍な社会に向かっている。そのような状況において、外国から来た人びと、ホスト社会(外国人を受け入れる側の社会)の人びと、そして行政当局の三者が相互に協力していくことが求められている。横浜中華街は、その成功事例の一つである。
 
 本書のはじめに、なぜ私が横浜中華街に関心をもつようになったのかを説明しておきたい。
 大学2年生の終わりの春休み、リュックを背に東南アジアをひとりで旅した。生まれて初めての海外旅行であった。1973年のことである。当時、貧乏旅行者必携の『地球の歩き方』(1979年刊行開始)もまだ刊行されておらず、バックパッカーという言葉も日本では知られていなかった。リュックを背負って旅をする若者は、後ろ姿がカニに似ているので「カニ族」と呼ばれていた。
 シンガポール、マレーシア、タイを旅して回るうちに、安宿はチャイナタウンに多いことを体験的に知った。気がつけば、チャイナタウンにある安宿を泊まり歩きながら旅行していた。当時、中国語はまったくできなかったが、大衆食堂で、紙とボールペンで筆談を試みると、私の周りにはすぐに人だかりができ、次から次に筆談で私や日本についての質問がされた。
 持ち金が尽きた42日目に初めての海外ひとり旅を終え、日本に帰ってきた。この旅で、私はチャイナタウンに出会い、より深く興味をもつようになった。
 地理学の研究をさらに深めるために大学院に進むことにした。将来、東南アジアに留学したいと思っていた。修士論文のテーマを考えるとき、東南アジアに調査に出かける経済的余裕はなかったので、日本国内で何かよい研究課題はないものかと大いに悩んだ。その結果が、横浜中華街であった。東南アジアには多くのチャイナタウンがあるので、横浜中華街を研究しておけば、必ず役に立つと考えた。
 しかし、修士論文で取り組んだ横浜中華街での調査は、苦難の連続であった。当時、横浜中華街の華僑社会は、中国派(当時は「大陸系」と呼ばれていた)と台湾派に二分されていた。その溝は深く厳しかった。事前の認識が甘いまま私は、横浜中華街の華僑関係の団体や店舗で聞き取り調査を試みた。
 
「あなたは、どっち? 大陸系、台湾系?」
「どちらでもないです。日本人の大学院生です。」
「日本人でも、どっちなの?」
「どちらでもありません。」
「だったらスパイ? はっきりしないと、こちらは何も話せないよ。」
 
 そのうち、横浜中華街に行くことがだんだんいやになってきた。とはいえ、大学院のゼミで修士論文の成果を発表しなければならない。そんなある日、横浜中華街に出かけたものの、そこを素通りして、山下公園の海が見えるベンチに座り込んだ。いっそのこと、修士論文のテーマを変えようかと真剣に考えた。
 そして、もう一度、頑張ってみようと自分に言い聞かせ、当時同じ研究室にいた台湾人留学生から教えてもらった台湾派の中華学校、横浜中華学院に電話した。あいにく紹介してもらった先生は不在であったが、私が横浜中華街について知りたいから電話したと話すと、それだったら興味をもっている先生がいるからと、電話を代わってくれた。その方杜国輝先生(のちに横浜中華学院校長を務める)であった。電話に出た杜先生は、私が横浜中華街の近くにいることを告げると、「だったら、すぐにおいでよ」と言ってくれた。職員室で杜先生は親切に話をしてくれ、知り合いの華僑を紹介してくださった。この日から、私の重い気持ちが吹っ切れ、横浜中華街に関するさらなる研究意欲が高まっていった。
 
 大学院博士課程在学中に、文部省アジア諸国等派遣留学生に選ばれて、シンガポールの南洋大学に2年間留学することができた。修士論文で取り組んだ横浜中華街の研究は、総人口の4分の3を華人(現地では「華僑」という表現は用いない)が占めるシンガポールで大いに役に立った。シンガポールの華人社会は、福建人、潮州人、広東人、客家カ人、海南人など、中国の出身地によって方言が異なるさまざまな方言集団から構成されていた。それぞれの方言集団は特定の地区に集中して居住し、職業も異なっていた。そこで私は、博士論文のテーマを、シンガポールにおける華人方言集団の「すみ分け(segregation)」に決めた(山下清海『シンガポールの華人社会』大明堂、1988年)。また当時、情報が少なかった東南アジア各地のチャイナタウンについても、フィールドワークに取り組み、その成果を一冊にまとめた(山下清海『東南アジアのチャイナタウン』古今書院、1987年)。
 その後、華僑の出身地である福建、広東、海南、浙江、東北三省(黒龍江、吉林、遼寧)など中国各地の「僑郷」(「華僑の故郷」の意味)の調査・研究を行った(山下清海『東南アジア華人社会と中国僑郷』古今書院、2002年/山下清海編『改革開放後の中国僑郷』明石書店、2014年)。また同時に、東南アジア各国はもとより、アメリカ、カナダ、フランス、イギリス、オランダ、イタリア、スペイン、ブラジル、メキシコ、インド、モーリシャス、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランド、韓国など、世界各地のチャイナタウン・華僑社会を調査してきた(山下清海『チャイナタウン』丸善、2000年/山下清海『新・中華街』講談社、2016年/山下清海『世界のチャイナタウンの形成と変容』明石書店、2019年)。
 世界各地の多様なチャイナタウンの姿を比較考察していると、横浜中華街の特色が見えてくる。まずチャイナタウンとしての横浜中華街の規模は、サンフランシスコやニューヨーク・マンハッタンのチャイナタウンには及ばない。しかし、世界のチャイナタウンの中で、10基もの牌楼(中国式楼門)があるチャイナタウンは、横浜中華街だけである。
 そして横浜中華街のチャイナタウンとしての最大の特色は、来街者のほとんどが華僑ではなく日本人ということである。世界の多くのチャイナタウンの役割は、現地で生活している華僑が必要としているモノやサービスを提供することである。新華僑によって形成された東京の「池袋チャイナタウン」(私自身が2003年に名付けた)も、このタイプに属する(山下清海『池袋チャイナタウン』洋泉社、2010年)。
 横浜中華街は、横浜のきわめて重要な観光地である。そして、それだけ日本人に愛されてきた街でもある。世界各地のチャイナタウンの中で、横浜中華街のように現地社会の人びとに愛されてきたチャイナタウンはほかにない、と私は断言できる。そこには、横浜中華街で生活してきた華僑と日本人の街を愛する強い思いがともに反映されている。
 本書では、観光地としての横浜中華街の姿だけでなく、そこで展開されてきた華僑社会の今に至るまでの苦難と努力の道のりを描き出したい。

2021年12月20日更新

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山下 清海(やました きよみ)

山下 清海

1951年、福岡県生まれ。筑波大学大学院地球科学研究科博士課程修了。理学博士。秋田大学教育学部教授、東洋大学国際地域学部教授、筑波大学生命環境系教授、立正大学地球環境科学部教授などを歴任。筑波大学名誉教授。専門は、人文地理学、東南アジア・中国地域研究、華僑・華人研究。著書に、『横浜中華街』(筑摩選書)、『華僑・華人を知るための52章』『世界のチャイナタウンの形成と変容』(ともに明石書店)、『新・中華街』(講談社選書メチエ)などがある。

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