ちくまプリマー新書

歴史ぎらいの原因は教科書にある⁉
『歴史学のトリセツ』より本文を一部公開!

歴史がつまらないという人は残念ながら多くいます。ではなぜそう思ってしまうのか? 理由を探るために歴史学の流れを振り返ってみましょう。専門家から一方的に伝えられるだけが歴史ではありません。歴史の見方が大きく変化すること間違いなしの1冊『歴史学のトリセツ 歴史の見方が変わるとき』より一部を公開します!

欠如モデルの問題点

 ナショナル・ヒストリーの起源や功罪についてはあとでくわしく説明することにして、話を進めましょう。先に引用した文章には、ほかに特徴はないのか、ということです。 ざっと読んでみると、特段の特徴は、ほかにはないような気がします。しかし、心を鬼にして読みかえしてみましょう。要するにあら探しですが、何度か読みかえしていると、ちょっとひっかかる気がしてくるから不思議なものです。どこがひっかかるのか。

 高等学校に限らず、学校の教科書には事実が書いてあります。日本の場合、小中高の教科書については文部科学省の検定制度があり、検定に合格しなかった教科書は利用できないことになっています。検定を担当するのは同省の職員である教科書検定官ですが、彼らは担当する教科書の分野について大学や大学院で学んだ専門家です。ですから、検定の基準は、基本的には「事実が書かれているか否か」です。

*ちなみに、ここで「基本的には」と書いたのは、政治的な思惑が介入する余地が残されているからです。たとえば、二〇二二年春の教科書検定では「世界史探究」や「日本史探究」の教科書が対象となりましたが、日中戦争・第二次世界大戦期の「従軍慰安婦」という言葉を「慰安婦」に、同時期の朝鮮半島出身者の日本列島への「強制連行」や「連行」という言葉を「動員」や「徴用」に、おのおの修正することが求められました。これは二〇二〇年四月の閣議決定に基づいています。参考までに、先に文章を引用した「歴史総合」教科書が、これらに関係する歴史をどう書いているか確認してみましょう。
 
 「労働力不足のなか、朝鮮人や台湾人、占領地の中国人が日本本土に強制的に動員され、工場や鉱山で働かされた。
 占領下の東南アジアでも、軍事資源の強引な調達や労務動員、日本語教育や天皇崇拝の強制がおこなわれた。また
 日本軍は戦地に兵隊の慰安施設を設け、朝鮮・台湾や中国・東南アジアの占領地からも女性を集めて働かせた」
(『現代の歴史総合』一三四頁)
 
たしかに「連行」ではなく「動員」という言葉が使われていますが、その前に「強制的に」という副詞が付いているので、この「動員」が自発的ではないことがわかります。また「従軍慰安婦」という言葉は使われていませんが「日本軍」が「慰安施設」を設置して「占領地」の「女性」を働かせたと記述されていますから、「軍」に「従」って「慰安」する「婦(女性)」つまり「従軍慰安婦」が存在したことがわかります。事実を描く言葉は変わっていますが、描かれている事実は変わっていないのです。

 それでは、政治的な思惑が介入することがあるとしても、描かれる事実の基本的な部分が変わらない理由はなにか。それは、これまで幾多の歴史学者がさまざまな資料をもちいて明らかにしてきた結果、多数の歴史学者が過去の事実であると認めているからです。もちろん、今後、新しい資料が発見され、記述されるべき事実が変化する可能性はありますが。

*たとえば、東南アジアのある元日本占領地域で「天皇崇拝は強制されていなかった」と書かれてある資料がみつかり、歴史学者が内容をチェックして事実だと確認して発表し、他の歴史学者の大多数が「そうだね」と支持するようになったら、先の文章は「占領下の東南アジアでも」から「占領下の東南アジアの一部でも」に変わるかもしれません。

 そうだとして、歴史の専門家である歴史学者の大多数が事実と認めたことが書いてある教科書の、どこがひっかかるのか。

 いま、ぼくは、教科書には「歴史の専門家である歴史学者の大多数が事実と認めたことが書いてある」と記しました。つまり、教科書は、歴史の専門家である歴史学者が、自分たち歴史学者コミュニティの大多数が事実と認めたことを、歴史の専門家でない生徒や学生のみなさんにむけて「これが事実です」と教えこむ、という構造をもっているわけです。その場合、一方に教科書を執筆する専門家としての歴史学者、他方に教科書を読者として学ぶ(暗記する)非専門家としての生徒や学生のみなさん、この両者がきれいにわかれることになります。もちろん教科書の場合は、執筆者と読者のあいだに、教科書を使って授業をする小中高教員のみなさんが介在しますが、彼らも基本的には教科書に書かれている内容は事実であることを前提として授業を進めるでしょうから、どちらかといえば生徒や学生の側に近いところに位置することになります。

 ここで重要なのは、世間では、一般的に「教えるひとと教えられるひとでは、教えるひとのほうが偉い」と考えられていることです。このことは、教科書にもあてはまります。教科書は、専門家である歴史学者が、非専門家である小中高教員や生徒や学生に対して、「これが事実です」という、断定的で、ちょっと上から目線な口調で書かれた本とみなすことができるのです。

 科学技術と社会の関係を考える「科学技術社会論(STS)」という学問領域がありますが、科学技術社会論では、専門家と非専門家の関係を「知識を欠如した非専門家に向けて、専門家が知識を与える」ものとして捉えるモデルを「欠如モデル」と呼んでいます。つまり、専門家じゃないひとは専門的な知識が「欠如」している、だから専門家はこの「欠如」している知識を彼らに与える役割を担っている、という考えにもとづいて両者の関係をモデル化したものが欠如モデルです。教科書は、まさにこのモデルにもとづいて作られているわけです。

 そして、この場合、非専門家である読者ができることといえば、専門家である著者が書いた文章を「間違いのないもの」として、つまり一種の消費行動として読むことに限られてしまいます。

 それでは、専門家によって書かれた事実が並ぶ歴史を一方的に「正しい」知識として受けとることは、面白いでしょうか。それとも、読者ができるのは単なる消費行動としての読書だけなのでイマイチというべきでしょうか。

 いろいろ意見はあるだろうと思いますが、ぼくは、ここでもやはり「うーむ、ちょっと……」です。だって「これって本当なんですか?」といった疑問を感じる余地がないじゃないですか。

 



 
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