筑摩選書

伝説の本丸に攻め込む
『「笛吹き男」の正体ーー東方植民のデモーニッシュな系譜』はじめに

「ハーメルンの笛吹き男」といえば、阿部謹也氏の著作を思い浮かべる方も多いでしょう。しかしそこでは「笛吹き男」の真相については語られることはありませんでした。本書『「笛吹き男」の正体』はその謎に迫った作品です。「はじめに」を公開いたします。どうぞご一読くださいませ。

 

 「笛吹き男」伝説を扱うのはひとつの冒険である。今から50年も前に阿部謹也が出版した『ハーメルンの笛吹き男──伝説とその世界』は、多くの読者を魅了し、一世を風靡した名著としての評価が高い。現在再読しても、突然、130人の子供たちを失った人びとの悲しみ、著者のこのテーマに寄せる情熱、精緻な文献調査、学者としての良心がひしひしと伝わり、感動がふたたび呼び起こされる。今でも決して古くないのである。

 それにもかかわらず、筆者が拙著を出版するのはなぜなのかを、最初に述べておかねばならない。阿部謹也が『ハーメルンの笛吹き男』で取り組んだ伝説の真相は、歴史の闇に隠れ、決定的な新資料が出現しないかぎり、もはや永久に解明することは困難であるとされてきた。これは博学の社会学者でもあった著者が多くの説を吟味されての結論であるし、日本ではこれまでたしかに、その著作を超える研究書は出現しなかった。

 ただし阿部謹也は、タイトルに『ハーメルンの笛吹き男』と銘打っているが、本来、同書は伝説の真相を解明することを目的にしていたわけではない。伝説を介して中世ヨーロッパのハーメルンを中心にした社会史、民衆史を披瀝している。とくに「笛吹き男」伝説を掘り下げていくうちに、視点はしだいに虐げられてきた下層民の社会的現実をクローズアップすることに向けられている。あとがきでこの研究は社会史研究の「一輪の花」と表現されたが、その一輪の花が阿部謹也の代表作になった。

 たしかに阿部は、「笛吹き男」伝説の本丸を二重三重に包囲したが、前述のように本丸には突入しなかった。筆者はそれにもかかわらず、本書で二つの視点から最終的には伝説の本丸にあえて攻め込んでみたいと思う。ひとつは、些細なことのように見えるが、事件の起きた日にちの問題である。事件が「ヨハネとパウロの日」(6月26日)に発生したことになっており、この事件はかつて、だれもが異教の夏至祭をルーツとするキリスト教の「聖ヨハネ祭」(6月24日)のヴァリエーションの日に生じたと信じて疑うものがいなかった。

 ドイツ人の研究者もそうだが、阿部謹也も6月26日の説を踏襲され、問題にしていない。しかし筆者はなぜヨハネだけでなく「パウロの日」という文言がセットになっているのか、ひっかかったままであった。そこでキリスト教の「聖人暦」の文献を徹底的に調べた。すると「ヨハネとパウロの日」と「聖ヨハネ祭」は隣接しているが、まったくルーツの異なる別の祭りであることが判明した。これは筆者も最初二日違いであり、その差は土着の祭りとキリスト教祭の習合の際に生じたことで、混同しても大した影響はないのではと考えた。

 しかし中世の祭りの祝い方を掘り下げていけばいくほど、「ヨハネとパウロの日」はキリスト教の殉教聖人のしめやかな追悼祭であるのに対し、「聖ヨハネ祭」は冬至祭の対極である旧暦の夏至祭(6月22日)に由来し、火祭りをともなう、どんちゃん騒ぎのアニミズム的な祭であり、その祝い方の落差はあまりにも大き過ぎることに気付いた。すると事件は本当に厳粛な殉教者の追悼祭である6月26日に起こったのではなく、その二日前の聖ヨハネ祭、いやそのルーツの四日前の夏至祭(6月22日)に発生したのではないかという疑問を否定することができなくなった。

 というのもハーメルン市民が祭りに浮かれて大騒ぎをしている最中に、子供の大量失踪事件が起こったと考える方が自然であるからだ。では記録はなぜ「ヨハネとパウロの日」にこだわっているのか。当時の教会やハーメルンの市民が祭りの日を「改竄(かいざん)」しなければならなかった理由があったのではないか、それが事件の謎を解くカギであるように思えた。謎の解明は本文でおこなうが、以上が本書を執筆するに至ったひとつ目の動機である。

 もうひとつはなぜこの事件が発生し、失踪した子供たちがどこへ連れていかれたのかという問題である。これまで失踪原因には、子供十字軍説、舞踏病説、「ゼーデミュンデの戦い」における戦死説、事故説、東方植民説など諸説が展開されてきた。近年のドイツにおける「笛吹き男」研究の動向では、東方植民説のなかでも、ライプツィヒ大学の言語学者ユルゲン・ウドルフ名誉教授の地名研究のアプローチが注目されている。ウドルフはこの事件が東方からの植民請負人が引き起こしたものであることを、具体的に実証している。

 それによるとハーメルンの子供失踪事件は、ロカトール(植民請負人)の東方植民のリクルートによって発生したこと、子供たちの行先は北ドイツのブランデンブルク辺境伯領からそれに隣接する現ポーランド地域であったということが、ほぼ解明されたという。筆者もこの説を吟味したが、十分首肯できるものであった。先述の祭りの日のずれと東方植民説を組み合わせると、ほぼこの事件の真相は解明できるのではないかと考え、ここにあえて「笛吹き男」再考という意味で、本書を執筆した次第である。

 しかしこれだけでは読者のみなさまは、翻訳もされていないウドルフ説の中身はどのようなものか、ロカトールがわざわざハーメルンにやってきた理由も不明で、かれは一体何者か、という疑念が残り、納得できないと考える方が多かろう。それは本文で展開することにするが、「笛吹き男」の正体を暴いていくと、ドイツの東方植民運動の実態がしだいに明らかになり、中世の事件だけにとどまらない、ミステリアスなドイツ史の暗部に踏み込んでしまう。

 すなわち本書は東方植民説を前提とするが、中世の伝説をその時代に閉じたかたちだけにとどめるのではなく、オープンにして後のドイツ史とのつながりを重視した点に、さらなる特徴がある。すなわち「笛吹き男」伝説は、中世の東方植民の歴史だけでなく、さらにこれは究極的にはヒトラーのナチズムで注目されるようになった東方植民政策と、根っこの部分で深く繫がっていたのではないか。

 とくにナチスの東方植民政策は、第二次世界大戦を引き起こす大きな要因のひとつであったが、その戦争の甚大な惨禍はホロコーストを含めこれまで考察され、研究書も数多く出版されてきた。ただ本書の特徴は、ハーメルンの130人の子供たちの失踪事件と、ナチスのレーベンスボルン(Lebensborn 生命の泉)プロジェクトを連動させたことにある。レーベンスボルンとは、優秀なアーリア民族を増やし、支配民族化するプロジェクトを指す。しかし、ここで展開された「純粋のアーリア人種創出プロジェクト」は暴走し、とくに主導したヒトラーの腹心ヒムラーは、ドイツ占領地で金髪、碧眼の子供たちを誘拐・拉致するという、とんでもない犯罪をしでかすことになる。その数はハーメルンの騒ぎどころではなく何万、何十万という数字が挙げられている。この事実はドイツの一部の研究者が注目し、ようやくクローズアップされようとしている。

 本書の後半はドイツの研究も踏まえ、この連鎖の問題に焦点を当ててみた。ここには中世から連綿と続く、ドイツ東方植民運動が、ナチス時代に突然提唱されたのではなく、大陸に位置するドイツの「地政学」とも深くかかわり、中世の神聖ローマ帝国の時代からプロイセン王国、ドイツ「第二帝国」、「第三帝国」の歴史と深く結び付いていたといえる。その意味で本書のサブタイトルを「東方植民のデモーニッシュな系譜」とした。


 デモーニッシュというドイツ語は、日本語に直すと「悪魔的」とか、「超自然的魔力のような」となるが、ただそう訳すと、ドイツ的特質の内面的などろどろとしたイメージを十分表現できなくなってしまう。だからデモーニッシュという言葉をそのまま使った。「笛吹き男」伝説が今日まで人口に膾炙(かいしゃ)しているのは、背景にドイツ的デモーニッシュなものがあったからである。その延長線上にレーベンスボルンを位置付けるならば、鬼気迫るナチス人種主義の狂気がリアリティをもって迫ってくるのではないか。


 以上の視点から歴史を見れば、「笛吹き男」伝説がドイツ史の中でふたたび現在に甦り、歴史の連鎖を提示しているように思われる。したがって「笛吹き男」が引き起こした事件は、ヨーロッパのドイツの小都市ハーメルンだけでなく、ドイツ全体、いや世界史にも大きな影響を与えた出来事であったといえるのではないだろうか。そればかりではなく、この歴史の暗部は、現代社会においてもくすぶり続け、まだ克服できていない課題であるようにも思う。直近の「ロシアのウクライナ侵攻」ですら、「植民地主義」や「領土支配」と無関係ではないからだ。以上が本書を執筆した理由である。


 

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