筑摩選書

パンデミック以降のいまを生きるための思想
『公衆衛生の倫理学――国家は健康にどこまで介入すべきか』まえがき

パンデミックによる行動制限、メタボ対策、あるいは健康増進のためのナッジの導入など。健康にかかわる社会のしくみは、人々の自由をどのように変えるのでしょうか。選択すべきは国家による介入でしょうか、それとも個人の自律でしょうか。現代世界に広がる倫理的難問をじっくり考える『公衆衛生の倫理学――国家は健康にどこまで介入すべきか』より、「まえがき」を公開します。

 宮崎駿監督によるアニメ映画『風の谷のナウシカ』をご存知だろうか。そこに描かれる架空の世界では、過去の大きな戦争によって文明がほとんど崩壊しており、大地には有毒なガス(瘴気)を発する菌類の森(腐海)が広がっている。わずかに生き残った人類は、この森の外で細々と暮らすことを強いられている。特殊なマスクがなければ、その森の中では五分と生きられない。主人公の少女ナウシカは、そのような厳しい世界をたくましく生き抜き、自然と人間の共存の道を探っていく。
 2020年に始まった新型コロナウイルスの感染拡大の中で、私たちもまた、マスクなしに出歩くことが難しくなった。ここに『ナウシカ』との共通点を見て取る声は珍しいものではないだろう(実際のところ『ナウシカ』はコロナ危機の下で再上映されもした)。もちろんコロナ危機を腐海と直接に結びつけてしまうのは、いささか危機を煽りすぎであるかもしれない。コロナ下の私たちはマスクをしなければ確実に死んでしまうというわけではない。しかし、マスクをしなければ死んでしまうかもしれないということもまた否定できない事実である。マスクという技術を用いて命を守って生きている、という点でナウシカの世界とコロナ下の世界はつながっている。
 そして、より踏み込んで考えてみれば、このつながりはコロナ危機以前から存在していたことに気づく。なぜなら、命を守る技術はマスクだけではないからである。私たちは日々、石鹼で手を洗い、きれいな水でうがいをする。新鮮な食材を購入し、清潔なキッチンで調理する。体重計で自らの体重を把握し、食事やおやつの量を気にかける。年に一回は健康診断を受け、病気になれば病院で診察してもらい、場合によっては治療を受けたり薬を飲んだりする。これらの営みは現代社会を生きる私たちにとってごく普通のこととなっている。これらのものがなければすぐに死んでしまうというわけではないが、そうしなければ健康を害して死んでしまうかもしれない。さまざまな技術を用いて健康を管理して生きているという状況は私たちの日常であり、架空の世界の話でも、非常事態の話でもない。
 さらに、ここでいう技術とは、マスクや健康食品といった直接触れられるモノの話に限らない。社会のあり方全体もまた人類が生み出した一つの技術である。少ない負担で病院にかかることを可能にする保険システム、ひいては病院というインフラそのものが私たちの健康を守っている。上下水道をはじめとする基礎的なインフラが整えられ、さらには運動するための公園やスポーツジムもたくさんある。私たちは生まれて間もない頃から数々の予防接種を受けるとともに、義務教育を通じて健康についての基本的なリテラシーを身につけている。私たちの健康は、こうした健康を守る社会の仕組みにも助けられたものである。
 これらの事実は、もちろん第一には、喜ぶべきことである。誰も、自分や家族が急な病気や怪我であっけなく命を落としてしまうような過去に──あるいは『ナウシカ』で描かれるような未来に──暮らしたいとは思わないだろう。しかしまた、健康を守る現状の社会のあり方に、まったく問題がないと言い切ってしまうのも、どこかためらわれる。誰もが一度は考えたことがあるのではないだろうか。健康になるように強いられることで、かえって生きづらくなってしまうこともあるのではないか? 健康が大事だといって、他のものごとが後回しにされてしまってもいいのか? 健康第一の社会は、どこか窮屈なところがあるのではないか? いや何を言っているんだ、健康が大事なことは否定できないし、それを国家が守ることも当然じゃないか。そう答えて話を終わりにしてしまうのは簡単であり、そしてまたそれが常識的な態度でもある。しかしながら、そのような常識を問い直すことからも、見えてくることがある。これらの素朴な疑問の核には、健康を守る社会の仕組みと個人の生き方の間の、複雑な関係をめぐる問いが潜んでいる。
 そしてこの問いは、現代社会においてこそいっそう問うべきものであると考えられる。というのも、文明社会におけるさまざまな手段を通じた健康の管理は、時を重ねるにつれていっそう深く広く社会を覆うものとなってきているからである。私たちは以前よりも高度な医療および健康管理の技術を持っており、それゆえいっそう健康に生きている。しかし同時に、健康でいるために多くの努力が払われ、健康であることが強く求められる社会に生きている。コロナ危機によって健康に対する政策的介入に焦点が当てられるようになったが、そもそもそういった介入の拡大はコロナ危機以前からの大きな流れである。そしてそれはおそらくこれからも続いていく。
 健康を守る社会の仕組みが、人々の生活をどのように変えていくのか。より焦点を絞って言えば、人々の自由をどのように変えていくのか。そのような仕組みは時に大きな負担をもたらすかもしれない。そしてそのような負担はすべての人にとって等しいものではないかもしれない。健康を守る社会の仕組みがどのような形を取るのかは、誰の生き方が肯定され誰の生き方が否定されるのかに直結する。
 だからこそ私たちはこの仕組みについて、真剣に考え、その論点を丁寧にみていく必要がある。そうすることは、私たちの暮らすこの現代社会のあり方を知る上で、さらには社会のこれからを見通す上で、大きな役に立つものになると期待される。以上のような観点からの筆者の一連の学究の成果をまとめたのが本書であり、本書がささやかながらも社会的意義をもつとすれば、この観点から議論をわずかでも前進させることに由来する。

 上に述べたのは、この研究によって筆者が読者に対して何を提供できるのか(なぜこの研究を行う必要があったのか)という疑問に対するひとまずの回答である。しかしながら本題に入る前の段階で、この疑問とは別に、しかしそれと共鳴するもう一つの疑問がありうる。それは、筆者がこの研究に取り組もうと思ったのはなぜかという疑問である。つまり、研究の意義とともに、研究の動機もまた最初に問うことができる。これについても答えたい。
 筆者は政治哲学および倫理学を専門領域として研究を続けてきたが、根本的な関心はずっと人間の「悪」というものにあった。より正確に言えば、悪の中でも、「善が悪に転じてしまう」という事態に強い関心を抱いてきた。善意によってなしたことが意図せぬ結果として悪を生み出してしまう、ということが現実には少なからずある。なぜ善意は失敗してしまうのだろうか? なぜ悪意のないところから恐ろしい悪が生まれてしまうのだろうか?
 人々の健康を守る社会のあり方を倫理的に考えることは、筆者にとって「善が悪に転じてしまう」具体的な事例に取り組むことでもあると感じられる。人々の生命と健康を守るためのさまざまな技術や仕組みは、善意に基づいているだろう。筆者はそれを疑うものではない。しかしながら、そのような技術や仕組みがかえって人々の自由を奪ったり、不当な抑圧を生んだりしてしまうことが現実に起きている。人々の生活を守るための試みが生きづらさを生んでしまったり、人間らしさを奪ったりしてしまうとすれば、それはなぜなのか、またどのようにしてそうなってしまうのか。筆者はこれを少しでも解き明かしたいと考え、この研究に取り組んできた。以上が筆者の究極的な動機である。
 本書が、第一に示した社会的意義を実現するものであること、また第二に示した動機について読者と通じ合うものとなることを筆者は願っている。

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