ちくま新書

「英語が苦手」と「英語ができるようになりたい」の狭間で
『英語と日本人――挫折と希望の二〇〇年』はじめに

辞書編纂者の苦闘、日本人にふさわしい教授・学習法の開発、名・珍英語参考書、英会話ブーム、小学校英語への賛否、グローバル人材育成や入試改革の是非̶̶幕末の開国以来、懸命に英語を学ぶ日本人の紆余曲折の足跡をたどり、未来への展望を示す『英語と日本人――挫折と希望の二〇〇年』の「はじめに」を公開いたします。

はじめに

 英語と日本人の関係はとても複雑だ。好きなのか嫌いなのかはっきりしないまま、ズルズルと付き合っているカップルみたいだ。希望に満ちた幸せな時期もあったし、苦い挫折の時期もあった。文明開化だ「カムカム英語」だと英語に熱中したかと思ったら、英語廃止論や敵性語論で冷えきった時期もあった。
 英語を愛し、英語を極めた人たちもいた。日本人にふさわしい英語学習法も次々に生みだされた。他方で、現在では小・中・高校の英語が義務化され、英語が好きでもないのに無理やり付き合わされる人も少なくない。
 あなた自身は、英語にどのくらいのエネルギーを割き、英語とどう付き合ってこられたのだろう。英単語を覚えるのに苦労した日々、好きな音楽や映画が聴き取れたときの喜び、試験の出来が悪かった時の挫折感、自分の英語が通じたときの感動、英語によって自己実現を果たした達成感などなど。自分史を書くとしたら、英語との関係史をどう記述されるだろうか。
 日本人が英語に費やした時間とエネルギーは膨大なものだ。それでも、いまだに「英語ができない」「英語が苦手」という挫折感と、「英語ができるようになりたい」「英語を好きになりたい」という希望とが共存し、涙ぐましいほどの国民的エネルギーが注がれ続けている。
 あなたが自分のエネルギーを自発的に英語に向ければ向けるほど、英語との距離は縮まり、成果も上がるだろう。だが近年は「官邸主導」や「経済優先」が英語の世界にも入り込み、英語教育のシロウトが思いつきの域を出ない政策を押し付けることで、英語教育を大混乱に陥れている。その典型が、2019年の英語入試改革の大失敗だ。政府と文部科学省は大学入試にスピーキングテストを加えるため、民間検定試験を導入しようとした。だが制度設計の致命的な欠陥が露呈して破綻し、英語教育史上まれに見る失策となった。
 いま、子どもも大人も英検やTOEICなどの受験に追われるようになり、英語を使う楽しさよりも、進学・就職・昇進に有利な高いスコアを持つこと自体が目的化している。しかし、検定試験のスコアが高い人が必ずしも英語の運用力が高いとは限らず、ましてや仕事ができるとは限らないことも知られてきた。
 学校の英語教育も深刻だ。2020年度に小学校の外国語(実質は英語)が教科化され、学力の二極分化が進んでいる。2021年度から中学生が接する英語語彙が約二倍に跳ね上がり、生徒も教師も悲鳴をあげている。英語が使える「グローバル人材」育成策の一環として、国が英語のレベルを一気に引き上げたからだ。大量の英語嫌いが生みだされ、かえって英語の学力低下が進むことが懸念される。
 他方で、児童生徒に一人一台のデジタル端末が配付され、オンライン学習やデジタル英語教材が新たな学びの可能性を拓きつつある。AI(人工知能)による自動翻訳・通訳がめざましい進歩を遂げ、その能力はすでに英検一級・TOEIC900点相当に達しているという。その結果、私たちが大変な労力と時間をかけて英語を学ぶ意味そのものが根底から問われている。
 そろそろ立ち止まって英語と日本人の関係を問い直し、これからどうすればよいのかを考えるべきではないだろうか。英語に振り回されるのではなく、英語との正しい付き合い方を冷静に考える時期にきているのではないだろうか。
 そのために、幕末から現在に至る英語と日本人の関係史を振り返り、挫折と希望、成功と失敗の足跡を検証することで、未来への展望を考えてみたい。そんな思いで、本書を執筆した。

 英語と日本人の関係は「なぜ」や「なぞ」に満ちている。
 ・なぜ日本人は英語を学ぶのか。
 ・何年やっても英語が身につかないのはなぜなのか。
 ・小学校から英語を習えば、英語が話せるようになるのか。
 ・受験のために英単語の暗記や文法訳読をやる意味があるのか。
 ・英語が使える「グローバル人材」を学校で育成できるのか。
 ・英検やTOEICでコミュニケーション能力が測れるのか。
 ・コミュニケーション重視の英語教育改革は成果があったのか。
 ・AI(人工知能)自動翻訳・通訳が進んでも英語を学ぶ意味があるのか。

 こうした疑問や謎を解く手がかりを得るために、英語と日本人の歴史をひもとき、先人たちの様々な経験と教訓を、英語教育学の最新の研究成果を織り交ぜながら考察した。
 本書は英語教育史の重要なエピソードに焦点をあてながら、一方では英語をめぐる問題を各時代の政治・経済・社会との関わりにおいてマクロの視点でとらえ、他方では学習風景や教材などをミクロの視点から取り上げた。そうすることで、英語と日本人の関係史を立体的に描こうと試みた。
 たとえば第1章では、明治期に行われていた小学校英語教育が挫折した理由を当時の資
料から分析し、現在の小学校英語教育の危うさを問い、第2章では、英語を極めた達人た
ちの学習法をランキングし、今日に示唆するものを抽出した。第3章では、文法訳読が
「訳毒」だと嫌われ、会話中心のコミュニケーション英語こそが正しいとされることの妥
当性を検討し、第4章では、戦後の英語普及政策をめぐる日米政府の思惑や、現場の教師
の奮闘を見ることで、戦後英語教育の光と影を追った。さらに第5章では、英語が使える
「グローバル人材」育成策や入試への民間試験導入の問題を検討し、グローバル化とAI
時代における英語と日本人の関わり方を考えた。
 歴史の流れに沿って第1章から第5章までを配置したが、叙述にあたっては過去と現在
を自由に行き来して歴史と対話し、歴史的および今日的な視点から積極的に論評を加えた。
 特に近年の官邸主導の英語教育改革については、私自身が論争の当事者だったこともあり、歯に衣着せぬ批判を加えた。より良い英語教育を願ってのことである。
 英語教育の歴史を刻んだ人々にも焦点をあてた。夏目漱石、岡倉由三郎、斎藤秀三郎、市河三喜、田中菊雄といった英語名人たちはもとより、教室で学ぶ普通の中学・高校生、ラジオ・テレビの英語講座で英語に親しむ市民などの声を拾い集めることで、英語を学ぶリアルな姿に迫った。
 日本人が英語を学び始めて約200年。その歩みは、日本語とは異質な言語である英語との格闘の歴史だった。英語を学ぶことで西洋文明をモデルに近代化を実現し、英米との戦争に敗れて英語を全国民が学ぶ体制を築き、いまグローバル化とAI時代に対応した英語との関わり方を模索している。
 先人たちの声に耳を傾け、英語教育の最前線を知ることで、日本人にふさわしい学習法を理解し、これからの英語と日本人のあるべき姿を考えていこう。
 

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