愛のある批評

「丸サ進行」と反復・分割の生 (1)

人や作品が商品として消費されるとき、そこには抗い、傷つく存在がある。
2021すばるクリティーク賞を受賞し、「新たなフェミニティの批評の萌芽」と評された新鋭・西村紗知が、共犯者としての批評のあり方を明らかにしつつ、愛のある批評を模索する。
第4回は、西村の本領である音楽批評。「丸サ進行」を取り入れた楽曲群が体現する、音楽にとっての自由について。

 うっ、となった理由は、何よりこれが「丸サ進行」によりつくられた作品というところにある。椎名林檎の「丸の内サディスティック」という曲が、コード進行だけ取り出され、作品の一部をなす、ただのループ素材に変わり果ててしまっている。その現実は何か直感的に受け入れがたいものがあった。作品が参照され、作家自身も誰々から影響を受けていて、などと語ることがあっても、こうやって都合よく素材として切り詰められてしまうばかりなら、何かが不健全だ。それくらいの直感である。
 そして、それでもこういう息苦しくて展開がない音楽が、今の若い人の生の感覚にぴったりくるのだろう、というのもわかる気がする。それらは、規格外であることを志向する動機が社会のうちにない現実の、写し絵のような音楽だ。都合よく音楽が分割されたり(他の音源を引用する手法もすっかり定着したようだ)、反復で音楽が満たされたりするのを聞くと、そのとき音楽は生のアナロジーのように感じられもする。何事も、あらかじめ奪われるべく生まれ、根本的には変化しないのである。だがこうした発想自体が保守的な聴取態度に則ったもので、まだそんなこと言う人いたんだなと思われるだけなのかもしれない。一部の「丸サ進行」曲を聴いていると、音楽の素材をかつての文脈を度外視して使用するとか、素材を反復していれば展開しなくてもよいとか、音楽制作に留まらず異業種へと目くばせできるとか、そういうふうに、自他関係の抵抗が無くなった状態こそ、音楽にとっての自由に他ならないと言われているように感じられるばかりである。その時その音楽の内部では、自由という概念が切り詰められてしまっている。音楽にとっての自由は、自らを拘束してくるものに対し向き合い、優位になることから始まるものではないのか(こういう自由について、本連載では一貫して言い続けているつもりである)。
 これは音楽批評にも責任がある。洋楽か邦楽か、アメリカか日本か、グローバリゼーションかローカリゼーションか、自分語りかアーキテクチャか、などと外/内の図式で批評家や創作する者などの人間たちの言い争いの場を提供するばかりで、作品そのものへ沈潜する方法を提示しようとしてこなかったつけが回ってきているのではないか(もちろん、作品そのものへ沈潜する方法が主題化された労作がひとつも存在しないわけではない。細馬宏通『うたのしくみ』など)。そもそも批評の側が作品そのものへ沈潜する方法を実践したところで、それが創作の側にどれほど影響を与えられるかは心もとないが、サボっているのは筆者だけじゃないと思う。

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