ちくま新書

古墳が語りだす「つながり」と「ちがい」

9月刊『古墳の古代史』の冒頭を公開します。日本の独自性はどこからきたのか? 歴史を探ります

古代東アジアの交流

二〇一三年三月、私は念願の調査地であった中国・四川の地、成都国際空港に到着した。
目的はこの地の漢代の考古資料、とくに銅鏡の調査である。実は、この四川で後漢代、約千八百年前に製作された鏡が、遠く離れた海東の地、日本の古墳からみつかっているのだ。両者の距離はざっと三〇〇〇キロメートル、中国でも西端の地から、それらの鏡はいったいどの経路を通り、どのようなひとびとによって運ばれたのであろうか【図1】。

 


その前年の暑い夏は、愛知県犬山市にある著名な前方後方墳、東之宮古墳の埋葬施設の再調査に参加していた。木曽川を見下ろす山頂にあり、濃尾平野が一望できる絶好の地に築かれた古墳だ。この古墳からは以前の調査で、日本での出土は珍しい斜縁同向式神獣鏡と呼ばれる銅鏡が出土している。
たまたまではあるが、この年に江蘇省徐州市の銅鏡調査に参加することができた。東之宮古墳出土の斜縁同向式神獣鏡のふるさとは、この徐州地方にあることがわかっている。こちらの方の距離は、一七〇〇キロメートル。昨日まで立っていた古墳に至る、はるかな道のりに思いをはせた。
考古学の醍醐味のひとつは、古代の壮大な交流の姿について、実物資料を通じて肌で感じ取れることにある。「交流」という古代から続く人間活動は、ひとびとを惹き寄せるチカラがある。シルクロードを特集したテレビ番組が以前にヒットしたのは、「交流」とい
うテーマの魅力によるところが大きいだろう。
古代日本(以降は「倭」と呼ぶことにする)と、中国との直接的な「交流」が考古資料にあらわれるのは弥生時代の中ごろからである。古墳時代にかけて、そのつながりは深さを増す。『後漢書』、『三国志』など中国の文献史料に倭が登場する時期だ。飛鳥・奈良時代へと続く東アジアの交流時代のはじまりである。
この時代から、倭をふくむ中国周辺地域は大きな変貌をとげる。

渦巻の発達と墳墓

本書で主に扱う紀元前一~四世紀、中国と朝鮮半島、倭の地域(曖昧なくくり方ではあるが、これらの地域をまとめて「東アジア」と呼んでおく)は、大きな社会変動のときを迎えた。それを大小さまざまな「渦巻」の運動としてイメージしてみる。
「渦巻」とは、各地域において社会の集団化と階層化が進み、有力者・支配者などが現れた時代から、「王」や「大王」と呼ばれる多くの集団を束ねる存在の支配者が登場するまでの段階の地域社会を示す表現である。身分の差や有力者・支配者という中心は存在するものの、位階制など社会的な仕組みとしては固まっておらず、また領域も明確な境界は形成していない。このような状態を「渦巻」になぞらえた。
こうした動きをもっとも雄弁に物語る考古資料は墳墓である。墳墓の変化からは、各地の集団が発展し、渦巻として統合化と大型化をとげてゆく過程を追うことができる。
ここで墳墓の特徴から、社会や集団の変化を復元する視点をちょっと紹介しておこう【図2】。まず身分にあまり差がないひとびとの墓は、おおむね等質の集団墓を形成する。その中で大きさや副葬品の量や質に差が生じ、それが特定の墳墓に集中すると、有力者や支配者の存在を読み取ることができる。それらが継続して築かれていた場合は、権力が代々継承されたものと考えられよう。さらに墳丘の大型化・差別化が進行し、突出した規模、他とは隔絶した内容の「王墓」が登場する。
こうした流れは世界各地でみることができる。中心的な権力者が登場した初期の段階には他よりも格段に規模が大きく、多くの器物を納めた墳墓が築かれた。日本では、こうした大型墳墓が築かれた時代を.古墳時代.と呼んで、時代の指標としている。

渦巻の発達と交流

倭や朝鮮半島における地域社会の発展をうながしたのが、中国の漢王朝の影響である。
紀元前一世紀前後、漢帝国の版図は最大限に達する。中華帝国という巨大な渦巻の膨張だ。その存在は周辺の地域・民族にも多大な影響を及ぼし、それぞれの地域でまとまりをもった勢力が伸長してゆく。渦巻群の形成である。最初は小さな渦巻が主であったが、それぞれ独自の成長をとげ、統合して大型化する。
考古学の成果からは、この時代以降、中国製品やその他地域の産物の交易がきわめて盛んになったことがわかる。先に紹介した、遠く離れた倭の地から出土した中国製の銅鏡も、こうした渦巻のつながりを通じて、はるかかなたの地に伝えられたのであった。
銅鏡のほか中国製の器物は、古代の朝鮮半島や倭の地域勢力においてとりわけ貴重視され、その支配者の墓に納められ、いわゆるステイタス・シンボルとしても機能した。そうした器物を所有しているか否か、あるいはどれほどの量を入手しえたのかという点は、支配者の勢力をはかるバロメーターともなった。逆にこうした貴重な器物を獲得できるかどうかは、各地の渦巻の間のちがいを促進させる作用を果たしたのである。
このような地域関係は三~四世紀に大きな変貌をとげる。ながらく周辺地域に多大な影響を与え続けてきた漢という巨大な渦巻が滅亡し、中国は三国時代という三つの渦巻に分裂した時代をむかえる。これらは西晋によって、いったんひとつに統合されるが、再び南北に分裂する。大きく二つの地域に分かれた中で、さまざまな王朝が興亡を繰りかえした。
これらの渦巻の中には漢族のほかに、遊牧系民族など非漢族が打ち立てたものもある。それぞれに社会制度や文化に特色があり、渦の回転方向は一様ではない。そうした大小さまざまな渦巻群は互いにぶつかりあうとともに、ハリケーンのごとく、東アジア圏外のさまざまな文化をも巻き込み、各地に散布する役割も果たした。
中央の大きな渦巻が姿を変えるとともに、朝鮮半島から日本列島に至る地域の各地に、高句麗、百済、新羅、倭あるいは加耶の諸勢力などといった、大小のちがいはあるものの、以前よりも相対的に規模の大きな渦巻が伸長してゆく。これらの渦も互いにぶつかりあい、あるいは同調し、中国とも関係しつつ、活発な動きによって発展をとげる。
この時代に墳墓は飛躍的な発達をみせる。三~五世紀、朝鮮半島・倭の各地において、地上に土や石を積んで巨大な構築物を設けた「王墓」が登場するのである。

つながりとちがいと

今さら強調するほどのことでもないが、古代日本の歴史を理解する上で、東アジア的な視点が不可欠であることは常識となっている。
考古学の分野でも同様だ。近年は中国や韓国における発掘調査の進展がとくに著しく、目をみはるような発見が相継いでいる。人目を引くような大発見ばかりでなく、資料の蓄積にもとづいた基礎的整理や比較検討といった地道な研究が着実に進み、次々と新しい知見が生み出されている。日本の弥生・古墳時代を考える上で、こうした他国の調査研究の成果に対して、今まで以上に目を配ることが求められている。各国間の学術交流も盛んだ。それらの国に留学して言葉を身につけ、現地の研究者と深い交流をもつ若い研究者も激増している。
遅ればせながら私も韓国や中国に調査に出かけ、怪しげなカタコトしかしゃべれないものの、いろいろ人に助けてもらいながら一生懸命遺跡や出土品を見て回っていると、日本での調査とはちがった、ある種の「興奮」をおぼえる。とくに、先に紹介したように、倭との「つながり」が見えたときは感慨もひとしおだ。
その一方で、古代における彼我の「ちがい」についても痛切に感じることも多い。中国のような先進的な地域と、後進の倭の文化内容が異なるのは当たり前ではある。韓国と日本も距離は近いものの(福岡の研究者は、関西に出かけるより、韓国に調査に行く方が近いという)、別々に歴史的な歩みをとげた地域だ。
しかし、単に文明化の度合いや歴史的な経緯だけではなく、うまく言えないが、社会の仕組みや信仰といった人の営みの根本的なところでの身体感覚的な「ちがい」を強く感じさせられることが多い。
「交流」の進展は「同化」ではない。むしろ各地域の特質のちがいを増大させる方向に作用したのではないか。津田左右吉の爽快な断定のことば、「日本と支那とは別々の歴史をもち別々の文化をもつてゐる別々の世界」が頭に浮かぶ。そう、「東アジア」という言葉によりかかった、安易なくくりかたは危険だ。
古代日本と東アジア諸地域のあいだの強いむすびつきと、その一方で強固に存在する各地域の社会のちがい、この両面に関して考古学の成果にもとづいて歴史的に考えてみたい、というのが本書のもくろみである。こうした印象にもとづいた比較は、単なる文化論に陥る危険がある。「やっぱり東アジアは一体化した世界だ」とか「文化が根本的に違うのだから、風習が異なるのも当然だ」とか、感覚的な意見を述べてもしかたない。
しかし近年、各地域で爆発的に増大している考古資料とその研究成果を用いるなら、この点についてより実質的な議論ができるにちがいないと思う。考古学が得意とするのは、年代と地域を細かく区切り、地域間のつながりやちがいを直接に比較検討することだ。この利点をうまく利用するなら、きちんと資料にもとづいて、きめ細かく、かつ広い視野からの古代東アジアの歴史像を得られるのではないか。また実際に遺跡や遺物をみることによって得られる「現場感覚」を盛り込んで、「ちがい」の意味を具体的に表現することもできるのではないか。
本書はそうした大きな目標に向かっての、やや無謀な挑戦でもある。

本書の構成

本書全体の構成と、そこに込めた私の意図について最初に提示しておこう。
先程述べた「渦巻」のように一定のイメージを使い、ある程度の共有しやすい図式を先に示して、いろいろな考古資料に関する記述の背後に、どのように歴史の動きを読み取ろうとするのか、理解のたすけとしたい。

本書が主に対象とする時代は、紀元前一世紀~紀元四世紀。漢帝国が楽浪郡を通じて東夷世界に強い影響を及ぼした時代から、それぞれの地域に王権が確立し、「王墓」と称される巨大墳墓が成立する三~四世紀までである。王墓の成立は地域によって時間差があり、一部では五~六世紀まで範囲を広げる。対象地域は、『三国志』東夷伝で扱われた、朝鮮半島と倭を中心とする。漢王朝の支配や影響は南方、西方、北方地域にも及んでいるが、本書では東夷世界に限定する。
日本での時代区分では弥生時代中期~古墳時代前期にあたるが、ふたつの時代にまたがる設定をおこなったのには理由がある。東アジア世界との関わりという視点から地域をみることを重視したいからだ。そのためには中国王朝と東夷世界の本格的な交渉がはじまった時代から、各地において地域勢力となる渦巻が誕生・発達し、それが王権の誕生に至るまでを、ひとつのまとまりをもった時代ととらえる必要がある。

話は、そうした東アジア世界全体ではなく、「前方後円墳の出現過程」という日本考古学で大きな議論を呼んできた問題から始める。
第一章では大型前方後円墳の出現は、考古学からみた倭の国家形成への歩みの中で、大きな指標となる画期である。近年の考古学研究においては古墳の年代研究が進んだ結果、前方後円墳の出現と、中国を中心とする東アジア世界の変動とを関連づけることができるようになった(第一章)。
第二章では、時代を溯って紀元前一世紀~紀元後二世紀、東夷世界にさまざまな渦巻が発生・伸長してゆくきっかけとなった、楽浪郡を中心とする器物の交易やひとの交流についてみる。先にも触れたように、器物を通じた交流のあり方は考古学でもっともとらえやすい対象であり、最近の研究から、各地をむすぶ多様な交易の実態が明らかにされてきた。こうしたモノや人の動きは、古代東アジアの地域社会の発展にどのように関わったのだろうか。
第三章では、地域社会の発展をもっとも雄弁に物語る考古資料、墳墓に着目する。権力者の出現やその伸長に対応して、墳墓も大型化、厚葬化が進んでゆく。そうした権力者のために巨大な墳墓を築く風習の起源も中国にあるが、地域社会の発展とともに東夷の各地にも広がってゆく。そして二~四世紀、東アジア各地域で王墓が出現し、発達してその頂点を迎える。こうした地域における墳墓の発達過程をターゲットとし、その一方で、王墓のもつ意味や役割に関する地域間の差についても目を向ける。
第二、三章では各地域間の「つながり」を語るのがメインであるが、第四章では視角を変え、倭と他地域の比較を中心とした「ちがい」に焦点を当てる。結論から言えば、中国文化の影響や交流の深まりと反比例し、倭をはじめとする地域間の墳墓・器物・信仰のあり方の.ちがい.は次第に増大してゆき、王墓の登場時に頂点に達するのである。ここにこそ海外の調査で私が感じた、何か根本的なところでのちがいの由来がありそうだ。「ちがいの由来」にも第四章で迫ることにする。
先に少し種明かしをしておく。私が専門とする銅鏡は、倭ではとくに重視され、権威の象徴となった特殊な器物であった。銅鏡のような器物を必要としたことは、社会の性格や仕組みのちがいにも結びつくはずだ。銅鏡を貴重視し、かつそれを社会や政治に利用した社会と、そうではない地域の社会とでは何が異なるのだろうか。
そうした器物を副葬した墳墓も、巨大化・差別化という点では中国・朝鮮半島・倭の諸地域で共通するものの、墳墓の構造や施設、それらが果たした社会的な役割に大きな差がある。その背後には、信仰や観念と社会との関係のあり方の差も見え隠れする。地域間のちがいの根っこにあるものはなにか。
「つながり」と「ちがい」の二つが織りなすエネルギーこそ、社会の変化を進める原動力である。この双方の面に目を向け、古代東アジアやその中での倭の位置づけについて複眼的に考えてみたい、というのが本書全体のもくろみである。