ちくま新書

長生きすればするほど不安が募る日本

9月刊ちくま新書『長生きしても報われない社会』の「はじめに」を公開します。いまの日本の医療介護の現状がわかります!

長生きすることへの不安感、怖れのようなものが社会全体に垂れこめている。
 確かに日本は世界一の長寿国で、平均寿命は女性八七・〇五歳、男性八〇・七九歳と過去最高を更新し続けている。が、しかし、平均寿命が伸びれば伸びるほど皮肉にも老後への憂いが深まる。歳をとって体力が衰え、病気になっても安心して人生の終末を迎えられない。誰にも看取られず、死出の旅路に発つしかない。しょせん人間は孤独なのだ。
 そんな気分が世のなかを覆っている。
 背景に医療や介護への不安、不信があるのは言うまでもない。経済格差が広がるなか、所得によって受けられる医療や介護の質が決まる。企業の社員が入る厚生年金と、自営業者や零細企業の社員、無職者などが加入する国民年金では、支給額に大きな差がある。
月々、わずか六万円程度の国民年金では生活が苦しく、医療・介護費が捻出できない。死ぬまで働き続けるほかなく、生活保護を申請したほうが楽だろうが、なかなか決心がつかない。
 一方で、医療や介護の現場を眺めると、慢性的に病院のベッドは満杯で、利用料金の低い特別養護老人ホームは入居待ちが長蛇の列。何年待っても入るのは難しい。認知症の人は症状が進むにつれて孤立し、老々介護の連れ合いが過大なストレスをためる。認知症の行方不明者は年間一万人を超え、心中を企てての「介護殺人」が頻発している。
 厚生労働省は、団塊の世代が一斉に七五歳以上の後期高齢者となる「二〇二五年問題」を視野に「病院から地域へ」「入院から在宅へ」と唱え、「地域包括ケアシステム」の旗を振る。身近な診療所や急性期病院、訪問看護ステーション、介護施設、自治体がネットワークをつくって「住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで」送れるようにしよう、と盛んに呼びかける。
 だが、ひと口に「地域」と言っても千差万別なのだ。高齢者が砂粒のようにバラバラに孤立している都市部では、ネットワークの受け皿が機能しにくい。過疎の地方では地域自体が消滅の危機に瀕している。
 と、長生きへの心配の種をあげたらきりがない。ありとあらゆる方向から不安が掻き立てられる。といって、この状況を呪っているだけでは何も変わらず、疲弊するばかりだ。
 では、どのように老後不安と向き合えばいいのか。暗闇に「光」を見出すには、何にどうアプローチすればいいのだろうか。考えてみるに、まず、制約の多い現状を知らなくてはならないだろう。そのうえで、可能な限り人間らしい医療や介護が行われている現場を把握しなくてはなるまい。個別の医療、介護の現場は、私たちの発見の場であり、大所高所で決められた政策の落としどころでもある。
 そこで、本書では、身近な在宅医療、介護の現場への取材を重ね、いくつかのルポルタージュをまとめた。ICT(情報通信技術)だ、人工知能だ、介護ロボットだと言っても、医療や介護は人と人の無数の「接点」で成り立っている。その接点で、人が人らしく扱われ、ときには「しあわせ」を感じられる現場とは、どのような考え方と行動、スキルで支えられているのか。先入観を抜きに、できるだけ中立的な視点で在宅医療、介護の場に接した。
 さらに現場を起点に地域、自治体、国へと同心円状に課題を抽出し、何が必要で何を選択すればいいかを考えてみた。医療や介護の向上は、現場と政策立案、執行機関との絶えざる情報の往還にかかっている。政策は現場からの情報のフィードバックで磨れる。では各章のサマリーを記しておこう。
 第一章の「在宅医療の光と影」では、ふとした他人の言葉で介護殺人を思いとどまったケースや、重い障がいを背負った独居の人が訪問診療と介護だけで生活を保っている例、難病の親族を家族が独特の関わり方でケアしているようすなどに焦点を当てた。
 石心会川崎幸(さいわい)クリニックの杉山孝博院長の訪問診療に同行すると、在宅で家族が抱える「七つの苦労」――①介護の精神的、身体的負担、②知識不足からくる不安感、③周囲の理解不足からくる孤立感、④ふつうの生活が送れないストレス、⑤突然の病状変化に対応できるかという心配、⑥住宅の環境的な問題、⑦経済的な不安――が、ひしひしと伝わってきた。介護の苦しみは、誰かに話を聞いてもらうことで不思議と和らぐ。家族会の存在価値が一段と高まっている。
 第二章は「看取り」がテーマだ。日本の緩和医療のリーダーで、めぐみ在宅クリニック(横浜市瀬谷区)の小澤竹俊院長の往診を通して終末期の患者にとっての「支え」を探る。六〇代の末期がんの男性は、対面した医師に「ちょっと裏から、手を回してくんない?」と訴える。「一服、盛るってやつですね」と医師は応え、男性の心の底から発した言葉を受けとめながらも、「体の声」に耳を傾けて在宅で緩和ケアを受けてあなたらしく生きてはどうかと導く。その場に同席した私の胸に、ふたりの対話はずっしりと重く響いた。
「傾聴と共感」が重要だとものの本には書いてあるけれど、それがどういうことか、臨床の場での対話を通して知っていただきたい。
 第三章で紹介する清山会医療福祉グループ(仙台市泉区)は、先駆的な認知症ケアを展開する医療・介護複合体だ。診療所や通所のデイケア施設、グループホーム、ケアハウス、小規模多機能型居宅介護所などを運営し、認知症の人の状態に応じて受け皿を用意している。
 ともすれば認知症が進行すると精神科病院への入院が当たり前のように行われる。家族が手を焼いたら病院へ。その病院では「身体拘束」や「向精神薬」の過剰投与が常態化している。「老人呆けは精神障害」(日本老年医学会一九六九年シンポジウム)という古い疾病観が幅を利かせているようだが、そもそも認知症は大脳の病変に起因しており、後天的に知能が下がる障がいだ。医療モデルを強引に押しつけたら、対応を誤る。
 清山会は、こうした精神科病院への「囲い込み」とは一線を画す。精神科医の山崎英樹理事長は「認知症ケアは在宅中心で、まずはデイケアで孤立を防ぐ。医療より介護。何よりも、関わりが大切です」と言う。地道な実践から認知症ケアの変革が起きている。「認知症の人と家族の会東京支部」の「つどい」にも参加し、「苦しみを吐き出す」大切さを思い知らされた。
 第四章では、厚労省が推奨する「地域包括ケア」を採り上げる。具体的な地域の取組みを通して、その可能性と限界を見つめた。医療法人坂上健友会・大戸診療所(群馬県吾妻郡東吾妻町)は、世にも珍しい「住民立」の診療所だ。地域の住民が身銭を切り、資金を出し合って創設した。人口減少に悩む過疎の地域にあって、大戸診療所は介護事業所を併設し、住民の生活支援にも乗り出している。文字どおり地域包括ケアの支柱なのだが、台所は火の車だ。国の介護報酬引き下げで存亡の危機へと追い込まれている。
 かたや二〇二五年問題の重圧がかかる東京圏では、介護施設不足を理由に「日本版CCRC(Continuing Care Retirement Community=継続的ケア付き高齢者共同体)」の構想がもてはやされる。CCRCの本家はアメリカ。全米で約二〇〇〇カ所、約七〇万人が暮らすCCRCは、約三兆円の市場規模だという。それを日本風にアレンジして「地方創生」のための成長戦略にしようというのだが、どうもニーズを読み間違えているようだ。発信源は内閣官房(首相官邸)。厚労省の地域包括ケアと官邸の日本版CCRC、ちぐはぐな政策の根本には国際的な潮流が押し寄せている。
 それは、第五章「資本に食われる医療」で詳しく論じる「市場化」「産業化」の圧力だ。在宅医療にかかる費用を手がかりに「医療、介護とお金」について踏み込んでいく。医療財政の危機が叫ばれるなか、多国籍化された巨大製薬会社は、「夢の新薬」の期待感を煽って超高額の医薬品を売り出し、莫大な利益をあげる。効果が確認できる薬もあれば、年間に三五〇〇万円も要しながら重篤な副作用を伴う、がん新薬もある。玉石混淆の状態を顧みず、製薬業界はTPP(環太平洋経済連携協定)へと突き進む。市場開放の圧力は、値付けがまったく透明化されていない医療機器にも及び、机上論で政策が立案される。日本の医療、介護はどこへ向かうのか……。

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