ちくまプリマー新書

ナイチンゲールの本当の功績――「戦場の天使」ではなかった!?
『よみがえる天才 ナイチンゲール』より本文を一部公開

「戦場の天使」や「自己犠牲の人」というイメージのあるナイチンゲールですが、それらには大きな誤解が含まれています。病院の設計や感染症の予防など、数々の業績を上げたナイチンゲールの知られざる顔を浮き彫りにする『よみがえる天才 ナイチンゲール』より本文の一部を公開します!

現代によみがえるナイチンゲール

 世界は二〇二〇年を皮切りに、新型コロナウィルス(Covit19)の爆発的な感染に見舞われ、二〇二二年末の我が国の統計では、陽性者の累積はおよそ二七六〇万人、世界の感染者数はおよそ六億五五〇〇万人で、死者数は六七〇万人に達しようとしています。

 各国の経済は低迷し、人々の暮らしは一変しました。特に感染症対策として、換気、手洗い、ソーシャルディスタンスの必要性が強く求められ、マスクをしなければ外出はできず、学校でも職場でも人と話すことが制限され、人間としての基本的なあり方が揺さぶられて、この先にどのような社会的後遺症が生まれるのか、たいへん気がかりな状況が生み出されています。

 これから本書で語る一九世紀英国が生んだ偉人、フロレンス・ナイチンゲール(一八二〇〜一九一〇)は、現代のコロナ禍にあって、一躍脚光を浴びることになりました。看護師の母と言われ、白衣の天使として名を馳せたナイチンゲールが、なぜ今、注目されるのでしょうか。それはナイチンゲールが当時の英国で訴え続けた《感染予防対策》の内容が、今日のコロナ禍において見事にマッチしているからです。

 ナイチンゲールが生きた時代の英国でも、感染症が猛威を振るいました。しかし現代と異なり当時は未だ病原菌が発見されていませんでしたから、治療法はありませんでした。感染症の原因が特定されていないにもかかわらず、ナイチンゲールは感染は空気の汚れから起こるので、町や村を清潔にし、部屋に新鮮な空気を取り入れる必要性を強く訴えました。そして部屋を清潔にし、身体を清潔にするよう促しました。今でいう《換気と手洗い》です。さらに過密な状態で過ごすことによって感染が拡大するので、密を避けよとも言いました。ナイチンゲールのこの提言にしたがって、徐々に英国中の病院構造が見直され、人々の暮らしにも換気と清潔という概念が認識され、実践が浸透していきました。

 新型コロナ感染が猛威を振るった二〇二〇年は、奇しくもナイチンゲール生誕二〇〇年という歴史的な年に当たりました。国際看護師協会(ICN)や世界保健機構(WHO)は連携して、その年を《国際看護師・助産師年》と定め、感染症に立ち向かったナイチンゲールを讃えて各国でさまざまなイベントが催されました。英国ではコロナ感染者が爆発的に増えた時期、臨時の大型療養施設がいくつも建設されましたが、それらの施設は《Florence Nightingale Hospital》と命名され、多くのナースたちが活動しました。二〇二〇年はナイチンゲールと感染予防とが、見事に結びついた年でした。

実像のナイチンゲールに近づくために

 不思議なつながりで、新型コロナ感染症の予防対策とナイチンゲールが結びついたことは事実です。しかしこれまでの日本においては、ナイチンゲールは歴史的人物として特定のイメージの中に閉じ込められ、誤解されたまま人々の間に広がっていきました。長年誤解されてきたエピソードの主なものは以下の三点です。読者の皆さまもきっと心当たりがあるでしょう。

 その第一点目は、ナイチンゲールは戦場で敵味方なく看病したというものです。この点はかつて中学校の教科書にも記述されていました。しかしナイチンゲールにはそうした体験はありません。彼女は主に戦場から遠く離れた黒海を挟んだトルコ側のスクタリの地で働いていたからです。戦場で敵味方なく救護にあたったのは、赤十字社を創設したアンリ・ジュナンです。ナイチンゲールはアンリ・ジュナンと重ねてイメージされているところがあります。第二点目は、〝看護師は自己犠牲を惜しまぬ白衣の天使であるべきだ〞として、ナイチンゲールは看護師たちに自己犠牲の精神を強要した人としてイメージされている点です。しかし彼女は決してそのようなことは言ってはいません。彼女は「看護の仕事は、快活な、幸福な、希望に満ちた精神の仕事です。犠牲を払っているなどとは決して考えない、熱心な、明るい、活発な女性こそ本当の看護師といえるのです」と書き残しています。この言葉こそ、ナイチンゲールが看護師たちに望んだ資質だったのです。

 第三点目は、ナイチンゲールは患者の傍らにあって一生身を粉にして献身的に働いた女性であるというイメージです。この点にも大いなる誤解があります。ナイチンゲールは三六歳の時に約二年に及ぶクリミア戦争から帰還しましたが、帰国後の五四年間は、ほとんどベッド上の生活を余儀なくされ、看護師としてユニフォームを着て働いたのは、九〇年の生涯でなんと三年弱しかなかったのです。しかし、ほとんど外出がかなわない状況にありながら、この間にナイチンゲールが成し遂げた仕事こそ、クリミア戦争での活躍と併せて、後世に残る偉業だったのです。

 本書ではナイチンゲールの生い立ちと重ねて数々の業績に焦点を当て、知られざるナイチンゲールの〝顔〞を浮き彫りにしていきます。

〝クリミアの天使〟というイメージはどこからきたのか

 ナイチンゲールは「クリミアの天使」であるというイメージが定着していますが、これにはいくつかの理由が考えられます。

 ナイチンゲールが社会的身分の高いレディだったこと、英国のみならずヨーロッパの社交界において、彼女の人となりや知性が、人々の口に上っていたなどの理由から、クリミアへの従軍が決定した段階で、世論は大いに彼女の動向に関心を抱き、うわさが盛り上がっていました。結果として、戦場での取材や視察が行われ、戦地の状況が報告される中で、膨大な記事や情報が新聞や雑誌誌上に掲載されましたが、中にはナイチンゲールが書いた手紙類を紹介した伝記の類もあり、それらも相当数にのぼっています。つまりナイチンゲールはクリミアデビュー当初から〝有名人〞となっていたのです。この点は、ナイチンゲールが〝クリミアの天使〞として騒がれる前提条件であったと思われます。

 さらにナイチンゲールの噂は、戦場から帰還した兵士たちによって、ランプを片手に傷病兵たちのベッド間を静かに歩む夜間の巡視の情景が伝えられたことによって、拡散していきました。兵士たちは口々に、ナイチンゲールから受けた看護の素晴らしさを語ったようですから、聖女のようなナイチンゲール像が出来上がったのだと考えられます。因みに英国ではナイチンゲールは〝ランプを持った貴婦人〞と呼ばれています。

 またナイチンゲールは、ヴィクトリア女王からも賞賛と労いの言葉を賜ったほどですから、彼女はまさに〝時の人〞〝国民的英雄〞として祭り上げられていきました。生まれてくる女の子に〝フロレンス〞と名付ける風潮も生まれましたし、多くのナイチンゲールグッズが製作されて販売されました。

 しかしクリミア帰還後のナイチンゲールは、人前に出ることなく、また二度とユニフォームを着て看護の現場に立つこともなかったので、噂は自然にかき消されて、いつしか彼女は生きながらにして伝説化されてしまった感がありました。

〝ランプを持った貴婦人〞としてのナイチンゲールの姿は、当時の伝記の翻訳本を通して日本の国民にも紹介された形跡があります。ナイチンゲールが存命の一八九〇年に、最初の邦訳本『フロレンス・ナイチンゲール』(秀英舎)が出版され、さらに一九〇一年には本格的な日本人による伝記が編まれています。その後続々とナイチンゲール紹介は続いて今日に至っています。

 日本において特筆すべきことがあります。それはナイチンゲールが明治三六年(一九〇三年)に国定修身教科書に取り上げられ、〝親切〞〝博愛〞などの徳目に登場したことです。修身の教科書には昭和一五年(一九四〇年)まで、つまり第二次世界大戦が激しさを増すまでの間、およそ四〇年間にわたって掲載されたようですから、この事実から、ナイチンゲールが戦時中に活躍した偉人として、日本人の心の中にしっかりと根を下ろしたとしても不思議ではありません。日本人が抱くナイチンゲール像は〝戦場の天使〞として、この時期に形成されたとみてよいと思われます。

 一方で、晩年のナイチンゲールが棲み暮らしたロンドン・サウスストリート一〇番地の住居には、何人かの日本人が訪れ、面会したという記録が残っています。その代表的人物は、津田塾大学を創設した津田梅子女史でした。その他、明治八年から一三年まで、ロンドンの聖トーマス病院医学校に留学していた医師の高木兼寛氏は、直接的ではないにせよ、ナイチンゲール思想に接した可能性は高いと思われます。〝病気を診ずして病人を診よ〞という高木氏の創設になる現・東京慈恵会医科大学のモットーは、当時ナイチンゲールが書いた文章と同じ表現です。高木氏が何らかの形でナイチンゲールの影響を受けたと考えたとしても間違いではないでしょう。

 このように、ナイチンゲールの存在とその真の業績は、多くは伝記本を通して、さらに英国に留学または視察に訪れて帰国した人々の口からも、我が国に伝えられ、評価されていった形跡があります。しかし異国にあって活躍した優しく博愛の精神に満ちた上流階級の女性の物語は、〝日本式のナイチンゲール像〞すなわち〝クリミアの天使〞または〝戦場の天使〞として人々の脳裏に刷り込まれ、それが少年少女向きの偉人伝に継承され、固定化したまま今日に至っていると私は推測しています。

 本書によってナイチンゲールの真の姿を届けることができるなら、筆者にとっては望外の喜びです。



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