ちくまプリマー新書

自分のランクを自分で下げる「自虐」のもたらす効果と”やりすぎ”の問題
『悪口ってなんだろう』より本文を一部公開

たとえば「私って全然ダメだから」という自虐も悪口のひとつだ。悪口はどうして悪いのか、友だち同士の軽口とはなにが違うのか。負の側面から人間の本質に迫る『悪口ってなんだろう』より本文の一部を公開!

自虐

 ここでは、自分に向かって悪口を言う場合を考えます。

 まったく同じものでも、状況によってその意義が大きく変わる、ということを私たちはよく知っています。同じ1000円でも、住宅ローンの支払いにため息をついているようなおじさんと(だーれだ?)、駄菓子屋でお菓子を選んでいる小学校一年生とではその価値が全然違います。

 まったく同じ行動でも、人からやるように命令されてするのと、自分から進んでするのとでは大違いです。同じ10キロのランニングでも、学校のマラソン大会でいやいや走らされるときもあれば、わざわざ参加費を払って走るときもあります。

 ことばに関してだけ、いつでもどこでも誰が誰に言っても、同じ表現なら同じ価値だと考えるのは無茶な話です。たとえば、中年になってきたおじさんが自分で「いやあ最近めっきり老けてきて〜」とか「おでこが広くなってきて〜」などとへりくだって言うことと、「ほんま老けたな!」などと言われることとは全然違います(ここはいわゆる「そんなことないよ待ち」ですから、気をつかってね!)。まったく同じことばやあだ名でも、本人が使うのと、人が使うのとではその重みが変わってきます。

 自虐的なことを言う、自分で自分の悪口を言う、ということには複数の側面がありますが、これもランキングの発想で理解することができます。まず最初に、どうして今見たように、自虐の方が「マシ」に聞こえるのか、という点を考えてみましょう。

 悪口は標的を自分より下げる役割があります。自虐の場合、自分が標的となっているため、これをそのまま当てはめると、自分を自分より下げる、という論理的に不可能なことをやろうとしていることになります。自分の身長は自分の身長より低くも高くもありません。自分のランクは自分のランクと同等で、そこにランクの差を作ることはできません。そのため、自分が自分に言う分には、簡単にランクを下げることができません。

 一方で、人から言われる場合は違います。その人と比べて、自分のランクが下がってしまうかもしれません。自分で自分のことを言うのはいいが、人から同じことを言われるのは嫌だ、というのは別にわがままなわけではなく、ランキングの仕組みから導かれる結果です。

 ですので、自虐が使いやすいのは間違いないでしょう。このあとのパートで見るように、悪口は笑いにつながる側面もありますので、自虐ならば自分をダシにして笑いを取ることができます。遊園地などが「ガラガラに空いてていいよ!」といった「自虐CM」を打ち出すのも納得できます。

 自虐だったら何でもあり、発言が不適切になることはない、というわけではもちろんありません。どうして、ときに自虐が「やりすぎ」に見えるのでしょうか。

 やりすぎでない自虐は、「自虐」と呼ぶよりはむしろ「謙遜」とか「慎み深さ」と呼ぶ方がよいかもしれません。本書後半でも確認しますが、強い立場にある人間をたしなめるために、悪口を言うことがあります。権力が強すぎるからこそ、それを少しでも減らすためにディスるのです。そのディスを自らに向けるということは、自分は危険な権力者ではない、えらそうなことはしない、ボスとしてふるまったりしない、あなたと平等ですよ、ということを伝えるシグナルになります。

 自虐はつまり、「つまらないものですが」とお土産を渡すようなふるまいと言えます。「つまらないものですが」と謙虚にふるまうことは、「お前を支配してやる」といった態度と正反対になるため、自虐も同じように頻繁に使われると思われます。「つまらないものですが」と言われたら、「何これ? マジつまらないやん」と内心思ったとしても、「これはこれは、わざわざどうも。こんな立派なものをどうもありがとうございます」と返すのが大人です。このように、どちらもへりくだることによって、私たちは平等です、どちらが上でも下でもないですよというメッセージを送り合います。「バカ」と言われて「バカ」と返すように、謙遜には謙遜で応答することにより、立場の同等さが確保されます。

 すると、その平等さを崩すほどへりくだることが、自虐のやりすぎ、ということになります。「わたしアホやから、テスト難しかったわ」「いや、今回まじ難しかったで〜できた人いないんちゃう」くらいのやりとりで終わらずに、「いや、ほんまにわたし頭悪いから。まじで。めっちゃ悪いから。そこんとこ分かって」などと詰め出したりすると、この人は大丈夫だろうか、と心配になってしまいます。

 もうひとつ重要なのは、誰もが何らかの集団を代表しており、自虐が集団全体をおとしめてしまうかもしれない、という点です。「代表」ということばは「アルゼンチン代表選手」のように、国を背負う、といったたいそうなニュアンスもありますが、私たちはいつも何かの「代表例」となっていることは間違いありません。たとえば私がアメリカの地方都市で開かれる学会に出席するとき、哲学学会ではよくあることですが、私がそこで唯一の日本から来た出席者となる場合があります。すると、世間話をしていても、私が日本に住んでいる人たちを代表して、日本のことについて話すことになります。私があまりにへりくだってしまっては、日本について不正確で歪んだ内容を伝えてしまうでしょう。

 他にも、自分が男性なら「男は結局たよんないからさあ」などとざっくりと自虐的に言い切ることはよくあると思います。男性が「女は結局〜」と言うよりはよっぽどよいですが、自分の世代についてでも、容姿についてでも、出身地についてでも、過度な自虐は、同じ属性を持った人々をまとめておとしめてしまうことになりかねませんので、何事もほどほどがよいと思われます。



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