ちくま新書

道徳とは規則の問題ではないし、価値観の押しつけでもない
『道徳的に考えるとはどういうことか』より「はじめに」

プラトン、ウィトゲンシュタイン、一ノ瀬正樹、槇原敬之などの実践を取り上げながら、道徳的思考の多様で奥深い内実に迫っていく『道徳的に考えるとはどういうことか』(大谷弘著、ちくま新書)。同書より「はじめに」を公開します。

†道徳的観点
 スポーツカーについて考えてみよう。と言っても、私はスポーツカーに詳しくないので、最近古い自動車に夢中の小学生の長男に「何かスポーツカーを教えてよ」と訊いてみる。長男は「アルピーヌA110」と答える。私はインターネットで検索し、中古車屋さんのウェブサイトで1967年式のアルピーヌA110が売られているのを見つける。フランス製の名車、ということらしい。私の第一の感想は、「これは高そうだな」というものである。価格は「応相談」と書かれている。どうも一千万円をきることはなさそうだ。
 長男がのぞき込んできて、「すごいでしょ。この丸みを帯びた形がエレガントで美しいんだよ」とうれしそうに語りだす。そして、「買いなよ。俺も乗りたい」と言う。
 もちろん、私は買わない。高価すぎてちょっと手が出ない。それにたとえお金があったとしても、二人乗りなので家族で出かけることもできない。「そのうえ」と私は考える。「このような燃費の悪い車に乗ることは環境に悪い。環境破壊に積極的に加担することは、間違っているのではないだろうか。それは将来の世代に害を加える不正な行為ではないだろうか」。
 さて、このように我々は様々な観点から物事を考える。一台のスポーツカーについて、我々はそれが高価だとか、維持費がかかりそうだとかといった金銭的観点から考え、それが美しくエレガントだと美的観点から考え、それを購入するのは不合理だと分別の観点から考え、そして、環境破壊をもたらすのでその車を乗り回すのは不正かもしれないと道徳的観点から考える。
 最後に言及した道徳的観点とはどのような観点だろうか。これを厳密に定義するのは難しい。道徳的観点と非道徳的観点を厳密に区別するような仕方で「道徳的」という語の定義を述べるのは困難であるし、そもそもそのような定義が存在するかどうかも疑わしい。しかし、厳密な定義を述べることができなくとも「道徳的観点」という用語を使うことはできる。ここでは私がその用語で何を考えているのかをいくつかの例を出しつつ大雑把に説明しておくことにしたい。
 一つには道徳的観点とは、「善悪」「正義」「平等」、あるいは「残酷さ」や「勇敢さ」といった概念を用いる観点である。例えば、私が小学校の先生だとしよう。私が担任をしているクラスでいじめがあり、私はいじめていた子を呼び、話をする。私は「いじめをしているとみんなに嫌われて結局損をするよ」とその子を諭すかもしれない。このとき、私は道徳的観点ではなく、分別の観点から考え、語っている。それはいじめが自分にとって損か得かという意味での合理性について考える観点である。しかし、もし私が「いじめはいじめられている子を深く傷つけるから、悪いことだよ!」と言うならば、私はいじめを「道徳的な悪」として特徴づけており、道徳的観点からその子を叱っている。他にも、「本当の意味で男女が平等な社会とはどのような社会だろうか」「環境破壊は将来の世代に害を加えることであり正義に反する」と考えるとき、あるいは、強盗殺人犯を「残酷だ」と非難し、内部告発によりハラスメントを告発した人を「勇敢だ」と称賛するとき、我々は道徳的観点に立っている。
 このように我々は「善悪」「平等」「正義」「残酷さ」「勇敢さ」などの概念を用いて道徳的観点から思考する。しかし、道徳的観点はこれらの典型的に道徳的、倫理的意味合いを帯びた概念のみによって構成されているわけではない。我々はより日常的な概念を使用しつつ、道徳的観点に立つこともある。
 例えば、漫画などでよくある父と子の葛藤の場面を考えてみよう。父親と息子は長年対立している。息子は「あんなやつ父親じゃない」と言い、決して父親を「お父さん」と呼ばない。しかし、様々な出来事を経て二人はお互いを理解するようになる。そして、息子は最後に―たぶん父親の死の場面で―ついに「お父さん」と言う。この「お父さん」という言葉には、一種の道徳的な赦しが表現されている。もちろん、「お父さん」という語は常に道徳的観点から用いられるわけではない。私の息子が「お父さん、今日の晩ごはん何?」と私に訊くとき、特に道徳的観点から何かが言われているわけではない。しかし、特別な赦しが問題となるような場面では、その「お父さん」という言葉は道徳的観点から発せられている。
 以上の例示により、私が「道徳的観点」ということで何を考えているかは、おおよそ理解してもらえただろうと思う。それは金銭的観点、美的観点、分別の観点などなどから区別され、人として、社会として、根本的に重要なことに関わる観点である。

†道徳的思考と価値観
 この本において私はこの道徳的観点から物事を考えるとはどういうことなのかを探求する。すなわち、私は「道徳的思考」とは何かを解明することを目指す。私のアプローチはパッチワーク的なものであり、道徳的思考の本質を取り出し理論的に解説することを目指すものではない。そうではなく、それは道徳的思考が現れている現場をよく見ることで、その様々な側面を提示していこうとするものである。
 細かい議論は次章以降で行うとして、ここでは導入として少しゆるやかに道徳的思考に対するイメージについて語っておこう。道徳的思考に対してしばしば持たれているイメージは、それが価値観の押しつけに帰着するというものである。そのイメージによると、人はそれぞれ自分の価値観を持っているが、それらの価値観の間で優劣をつけることはできず、したがって、そのような価値観が道徳的観点から―例えば「正義」として―主張されると、それは価値観の押しつけとなる。例えば、「脳死臓器移植は許されるのか」とか「死刑制度を存続すべきか、廃止すべきか」とかといった意見の分かれる道徳的、倫理的問題について議論をするとき、それぞれの立場の論者は、結局のところ自分の価値観を押しつけようとしているに過ぎない。このようなものとして道徳的思考はイメージされることがある。
 私自身はこのようなイメージを受け入れない。確かに道徳的思考は価値観に関わるが、しかし、様々な価値観の間に優劣がないとは言えない。私の考えでは、価値観の中にはより正しい、もしくは、よりよい価値観があり、何が正しいことなのか、何がよりよいことなのかを考察し、探求することは意味をなす。
 この点について深く論じることはこの本の主題ではないので、ここでは簡単な指摘を一つしておくことで満足しよう。私が指摘したいのは、多くの場合において、道徳的思考が価値観の押しつけに過ぎないとは我々は考えない、ということである。確かに脳死臓器移植の是非や死刑存廃論といったちょっと自分から縁遠い話題については、価値観は人それぞれだと言ってすませたくなるところがある。実際、私の経験でも、授業でこれらの話題を扱うと、多くの学生がそれは価値観の問題で決着をつけられない、というような意見を述べる。しかし、例えば自分の知人にひどい噓をつかれたとか、自分の親しい人がハラスメントを受けたとかというようなときに、「まあ、価値観は人それぞれでそういうのを悪いと言う人もいれば、それほど問題にしない人もいるよね」とさばけた態度をとるだろうか。そのような場合、我々は「それは間違っている!」と留保をつけることなく判断し、憤るのではないだろうか。もちろん、我々がどういう態度をとるかということと、実際にそのようなケースで「正しい/間違い」の区別があるかどうかということとは別のことである。しかし、さしあたり、道徳的思考を価値観の押しつけとしてイメージする必然性はなく、この本において私自身はそのようなイメージを受け入れないということを確認することで満足し、この点についてはこれ以上踏み込まないことにしよう。

†道徳と規則
 別の関連するイメージもある。以前にテレビのニュースを見ていたときのことである。セクハラに関するニュースをやっていて、町の人の意見を聞くという映像が流れていた。その中で、会社員風の男性が、「昔とルールが変わってしまって難しくなりましたね。何が正しいルールか教えてほしいです」というようなことを述べていた。
 ここにあるのは、道徳的思考とは社会が恣意的に決めた規則を適用することだ、というイメージである。そのイメージによると、道徳とは規則の問題である。そして、規則自体には何か絶対的根拠のようなものはないが、社会は何らかの規則を決まり事として採用し、流通させている。したがって、道徳的に考えるとは、結局のところ、そのような規則を適用することに存する。このように考えられているのである。
 私はこのイメージも採らない。もう何年も前のことなので具体的に何のニュースだったのか思い出すことはできないが―残念ながら、セクハラはしばしばニュースになる―そのニュースを見ながら、私はこれは非常に非道徳的なイメージだと思った記憶がある。
 ニュースでコメントをしていた男性は、道徳を恣意的に採用された規則の問題としてイメージしている。そのため、セクハラに関する社会の変化も、問題認識の深まりではなく、規則の変化として捉えられることになる。そのうえで、セクハラに関しては規則が明確になっていないと戸惑いを表明しているわけである。
 このようなイメージにおいて抜け落ちているのは、他者の苦しみに対する感受性である。セクハラという概念が流通する以前から、女性であるという理由で多くの女性が性的なハラスメントに苦しめられていたということ。そして、現在でもそのようなハラスメントによる苦しみが存在しているということ。私のイメージではそのような苦しみを理解しようと努めることは道徳的であることの重要な一部であるが、先の男性の発言からはその点がまったく抜け落ちてしまっている。もちろん、通りすがりの人の発言を拾った映像であり、その男性の熟慮のうえでの見解を報じているわけではないだろう。しかし、道徳を規則の問題としてイメージし、「とにかく正しい規則を教えてくれたらそれに従うのに」と考えることは、他者の苦しみや観点を理解しようと努めることという道徳的思考の重要な部分を取りこぼしてしまっているように思われるのである。

†ごちゃごちゃした活動としての道徳的思考
 私が提示したいイメージは、道徳的思考を価値観の押しつけや規則の適用といったシンプルな活動ではなく、多様な要素を含む、もっとごちゃごちゃした活動として捉えるものである。すなわち、私のイメージでは、道徳的思考とは他者の苦しみや観点を理解しようと努め、不正に憤るとともに、想像力を用いた考察により自他の物の見方を問い直していく活動である。それは理性、感情、想像力といった自己の能力を総動員する活動なのだ。
 以下の諸章ではこのイメージに中身を与えるために、様々なテキストに現れる道徳的思考を吟味し、その多様な側面にフォーカスを当てていく。第1章と第2章では、「なぜ法律に従うべきなのか」という問いをめぐる道徳的思考を見る。とりわけ第2章では哲学史上の古典であるプラトンの『クリトン』を扱い、そこで展開される道徳的思考が想像力を本質的に用いるものであると論じる。そして、第3章では後期ウィトゲンシュタインの言語哲学に依拠しつつ、思考における想像力の役割についてさらに掘り下げて考察する。続く第4章では日本の哲学者一ノ瀬正樹の動物倫理論に注目し、古典のみならず現代の哲学者のテキストにも想像力に訴える道徳的思考を見いだすことができると論じる。
 このように第1章から第4章までが想像力を主題にしているのに対し、第5章では感情の役割について論じる。感情は理性を妨げるものとしてイメージされ、道徳的思考においては可能な限り排除されるべきものとされることも多いが、第5章ではマーサ・ヌスバウムの議論に依拠しつつ、感情が道徳的思考の重要な要素でありうると論じる。
 それに続けて、第6章では道徳的思考のスタイルの問題を取り上げる。主流の(分析)哲学者の間では、道徳的思考は理想的には学術的な論文調のスタイルで表現されるべきだということが前提にされてきた。しかし、道徳的思考が想像力や感情のような多様な要素を含むとすれば、それを表現するスタイルがどのようなものであるべきか、ということが問題となる。というのも、そのような多様な側面を持つ思考を表現するのに学術的なスタイルがもっともすぐれているということは自明ではないからである。第6章においてはこのスタイルの問題を扱い、道徳的思考が文学やポピュラー音楽のような様々なスタイルを取り込むことで、より豊かなものとなりうる、と論じる。
 

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