ちくま新書

リスクを抱えてまで、なぜ「売る」のか?

近年、歌舞伎町の一角で「立ちんぼ」をする若い女性が急増した。ラブホテルの密室で暴力を振るわれるなどリスクがあるのに、彼女たちはなぜ「売る」のか? 毎日新聞社会部記者が、60人以上の女性たちのほか、貢がせようとするホストたち、彼女らを支援するNPO、路上売春を取り締まる警察などを多角的に取材した『ルポ 歌舞伎町の路上売春』(ちくま新書)より、プロローグを全文公開します。

プロローグ

 生い立ちを語った彼女は話の終わり際、どきりとする言葉を口にした。
 「だからさ、「愛情」という字は知っているけど、それが何かは分からないんだよね」
 モモという19歳の女の子。両腕にあるのは、リストカットの傷跡だろうか。ベージュのコートの襟をつまみ、「これ4000円だよ。よくない?」とあどけなく笑う。この街に来たのは、どこかで愛情を求める気持ちがあったからかもしれないと言った。
 モモを初めて見たのは、3カ月ほど前、ビル風が吹きつける道端だった。2022年12月、東京・歌舞伎町。2人の女の子が細い路地のガードレールに寄りかかり、ぼんやりと立ち続けていた。一人はタバコに火をつけて夜空に煙を吐き、もう一人は、幾重にも首に巻いたマフラーを鼻まで引き上げ、自分を抱きしめるように両腕を体の前で交差させていた。風が強い夜の路上で、ひどく寒そうだ。
 ガードレールは、背後にある小さな公園をぐるりと囲んでいる。ネオンが煌々とともる「眠らないまち」というイメージとは異なり、細い道を照らすのは街灯ばかり。路面にはタバコの吸い殻が無数に散らばり、自動販売機の脇には、たいてい誰かがうずくまっている。街が放つ強い光の影の部分を背負ったような雰囲気が、ここにはある。
 2人は夜な夜な路上に立ち、売春相手を待つ女の子たちだ。「立ちんぼ」と呼ばれ、そう自称することもある。堅い言い方をすれば「街娼」だ。歌舞伎町には、そんな女性が集まる一画がある。日が暮れる頃、どこからか来て、自らの体を買う客を待つ。大半は20代前半。彼女たちは暗がりの中で、白く光るスマホに目を落とし、互いに距離を取って路上に立ち並ぶ。
 タバコを吸っていたのは26歳のユズだ。黒地に白いひらひらの襟がついた膝丈のワンピースを着ている。「どう?」と声をかけると、「全然ダメ。ちょっと前に警察が一斉に捕まえに来たらしくて、客が全然来ない」と返してきた。彼女とは出会って1年が経っていた。互いに素性を知っているからか、話しかければいつもあけすけに語ってくれる。ユズはスマホの時刻にちらり目をやると、「やばいよ、手持ちの金がない。1000円しかないのに、もうちょっとで部屋の更新時間なんだ」とつぶやいた。定宿にしている近くのインターネットカフェの個室を使うには翌日以降の代金を前払いする必要があり、2000円ちょっとかかるという。「ATMで下ろせばあるけど……。あー誰かパッと1万円くれないかな」。いたずらっぽくこちらを見るが、笑って受け流すと、再びたばこを吸った。
 そんなやり取りを隣で聞いていたのがモモだった。「私も全然ダメー」と言う。薄手のコートを羽織ってはいるが、やはりスカート丈は膝上までだ。素足をさらすのは「商売だからね」と屈託なく笑う。「私はね、半年前に歌舞伎(町)に来たの」と教えてくれた。2人は最近知り合ったらしく、近くのインターネットカフェの一室をシェアしながら暮らしていた。
 短い会話を交わして私は2人から離れた。新たに出会ったモモが19歳だとは、その時点では知らなかった。この日に聞いたのは、半年前に来たということだけだ。もう少し聞きたいこともあったが、話を続ければ彼女たちはその間、「仕事」にならない。その仕事は違法行為だが、路上に立つ女性たちから少しずつ話を聞くのが、新聞記者である私の仕事だった。私は社内で決まった担当を持たず、割と自由な立場にいた。歌舞伎町に足を運んで取材を続けてはいたが、もともと誰かに求められて始めたわけではなく、締め切りもなかった。

 後に知ることになったが、ユズは北海道の小さな町の出身で、モモは北関東のはずれの町で生まれ育った。それぞれに求めるもの、避けたいことがあり、たどり着いた場所で、彼女たちなりの人間関係を築いていた。この社会に暮らす誰もがそうであるように。
 公園の一帯は、何十年も「立ちんぼスポット」であり続けてきた。暴力団や薬物がはびこり、歩くだけで危ないと言われた時代にも、2020年春に始まった新型コロナ禍で日本中の繁華街から人が消えた時にも。その数に違いはあれど、女性たちの姿が消えたことはない。客からの暴力や性感染症、金銭トラブル、そして警察による取り締まり。いくつものリスクを抱えながら、彼女たちは道に立つ。
 私がその存在を知ったのはいつだったのか、はっきりとは覚えていない。だが、いつからか私の中に疑問があった。知らない男性や警察が怖くはないのか。どれくらい稼げるのか。リスクを抱えてまでお金が必要なのはなぜか。どこから来たのか。路上売春をしていることを家族は知っているのか。いつまで続けるつもりなのか。そして、性を売る女性が集うこうした場がこの社会に存在し続けるのはなぜなのか――。
 「何か特殊な人たち」で、自分とは無関係だと見なしてしまえば、そこで話は終わってしまう。だから、彼女たちがどんな歩みを経てこの街にたどり着いたのか、私たちが暮らす社会は彼女たちとどう向き合っているのか、知りたかった。
 そんなことを考えていた頃、偶然の出会いがあった。坂本新さん。いつも黒っぽい服を着て、いかつい体と柔和な顔つきをした51歳の男性だ。会社勤めをしながら、歌舞伎町を「居場所」にする無数の女性に声をかけ、金銭トラブルや望まない妊娠の相談に乗ってきた。NPO法人の代表でもあり、街の一角で相談室を開いたばかりだった。2021年秋のことだ。新宿東口の地下街にある喫茶店で坂本さんに会った私が、女の子たちの声を聞いてみたいと言うと、「よかったら、(相談室に)来てみてください」と応えてくれた。
 地上では落ち葉が乾いた音を立てて道を舞い、その日も多くの若い女性たちが暗がりの中で、白く光るスマホに目を落として立っていた。
 そんなふうにして、私はこの街に通い始めた。当初は想像だにしなかったが、1年後、この街には、体を売るために路上に立つ若い女性が急増し、歩道からあふれんばかりにひしめき合うようになる。何年も続けてきた女の子も、取り締まりに当たる捜査員も、「異常だ」と口にした。
 その傾向は2023年も続いている。彼女たちを取り巻く環境と、街の風景が大きく変
わっていく状況を目の当たりにして、私は歌舞伎町に足を運ぶのをやめられなくなった。それは今の時代に起きている、明らかな異変だった。

*本書に登場する人物の年齢は、取材時のものです。「モモ」などカタカナ表記の名前は仮名です。また、本書は買春や売春見物を勧めるものではありません。
 

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