ちくま新書

まずは「安楽死」とは何かを知ることから始めませんか?

日本にも、終末期の人や重度障害者への思いやりとして安楽死を合法化しようという声がある一方、医療費削減という目的を公言してはばからない政治家やインフルエンサーがいます。「死の自己決定権」が認められるとどうなるのか。「安楽死先進国」の実状をみれば、シミュレートできましょう。11月刊ちくま新書『安楽死が合法の国で起こっていること』の冒頭を公開します。

1「安楽死」への関心の高まり
 「あなたがインターネットで書いた記事がSNSで拡散されて、話題になっている」と知人からメールで知らされたのは、2022年の秋だった。ネットで書いた記事……? はて、どこで書いたっけ……? ネットで定期的に寄稿しているのは「地域医療ジャーナル」だけど、あれは有料会員限定だし、他は紙媒体にしか書いていない……。戸惑いながらメールに添付された写真を開くと、それはどこかの誰かのツイッターのスクリーンショット(スクショ)だった。なるほど覚えがないのも不思議はなくて、そこでリツイートされているのは2012年にネットジャーナル「シノドス」に掲載された記事「安楽死や医師幇助自殺が合法化された国々で起こっていること」。それなら、確かに書いた。タイトルの通り、ブログでウォッチしてきた海外の安楽死の実態を紹介した。とはいえ10年も前のことだから、具体的な内容まではもう思い出せない。むしろ、うっすらと蘇ってくるのは、記事が公開されてからのザワザワと不穏な気持ち――。
 介護関係の雑誌に始めた連載のネタ探しを機に、2007年から障害と医療をめぐる倫理問題をインターネットで追いかけてはブログで紹介するようになった。地味なブログで、訪問者はせいぜい1日200人程度。どういういきさつだったか「シノドス」に記事を書くことになり、原稿を書いている間は伝えなければと必死だったのに、公開されるや媒体の力で多くの人に読まれていくと、にわかに恐ろしくなった。
 実際、SNSでいろんなことを書かれ、やがて心の平安を守るために記事にもSNSにも寄り付かないことに決めた。翌2013年『死の自己決定権のゆくえ――尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』(大月書店)という本を出したこともあって、いつのまにか記事のことは忘れて暮らしていた。その記事が10年も経った今ごろになって自分の知らないところで拡散されているというのは、ちょっと薄気味が悪い。当たり前のことながら10年分未熟だった当時の私が書いたものには、きっと今ならもっと慎重に吟味するだろう不用意な言葉や表現が多々あるだろう。スクショのツイートは「良い記事。必読」と書いてくれているけれど、そういう受け止めばかりではないに違いない。覗きにいくのはやめておくことにした。
 ザワめきそうな心をなだめながら、つらつらと考えてみる。そうと知らされてみれば、今ごろになってこの記事が話題になる背景も想像できないわけではない。10年前は、海外の安楽死に関する情報が日本でも少しずつ流れ始めた頃で、安楽死を「苦しまずに死なせてもらうこと」と捉えたうえで「海外では合法化されているのだから、日本でも」という文脈での発信がほとんどだった。実際に安楽死の周辺で起こっていることも安楽死をめぐる議論もはるかに複雑なのに、その詳細は知られないまま「安楽死」への関心が高まることを懸念して、「シノドス」の記事を書いた。
 その後も関連情報を拾いながらこの問題を考え続けてきたけれど、この10年間で海外の安楽死の動向には気がかりが増すばかりか、日本でも「安楽死」がさまざまな形で頻繁に立ち現れてくるようになった。

†相模原障害者施設殺傷事件
 2016年7月に知的障害者施設で元職員の植松聖が19人を刺殺し、多くの人を傷つけた相模原障害者施設殺傷事件では、事件前に植松が衆議院議長に宛てた手紙の中で、「私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界」「障害者は不幸を作ることしかできません」と書いていた。世の中に大きな衝撃を与えた一方、ネット上に植松のこうした言葉や行為に賛同する声が多数上がったほか、植松の行為について「ある意味で分かる」と発言した政治家もあった。「私は安楽死で逝きたい」という言葉が『文藝春秋』誌の表紙に登場したのは、まだ事件の衝撃が冷めやらぬ11月のことだ。脚本家の橋田壽賀子の「歳をとって社会の役に立てなくなったら、安楽死で死にたい」という素朴な思いには多くの共感が寄せられ、その手記は同年の文藝春秋読者賞を受賞。翌2017年には橋田の文春新書『安楽死で死なせてください』が刊行され、さらに賛同を集めた。帯には「人に迷惑を/かける前に/死に方と時期くらい/自分で選びたい」と書かれている。
 2019年6月には「NHKスペシャル」(「Nスぺ」)が、難病を患う日本人女性のスイスでの医師幇助自殺を密着取材し番組化。姉妹に付き添われてスイスに渡り、自殺幇助クリニックの一室で毒物の点滴ストッパーを自分で外して死に至るまでが、死の瞬間の映像を含めて放送された。

†京都ALS嘱託殺人事件
 そして、同2019年11月に起きたのが京都ALS嘱託殺人事件だ。死にたいと望むALS患者の女性とネットで知り合った2人の医師、山本直樹と大久保愉一が金銭で殺害を請け負い、女性の自宅を訪れてわずか20分ほどで胃瘻から薬物を注入して殺害し立ち去った。2人は過去に『扱いに困った高齢者を「枯らす」技術』という電子書籍を出版しており、逮捕後まもなく、別の難病女性の診断書をスイスでの医師幇助自殺目的で偽造した余罪が明らかになった。が、苦しんでいる人に寄り添った心温かい医師だと2人を称賛したり、日本でも安楽死を合法化すべきだと主張したりする声は上がり続けた。私には、相模原事件から後、衝撃的な出来事が起こるたびに、人々がその衝撃に心を揺さぶられるまま無防備に「安楽死」という言葉に惹きつけられていくように見えた。
 やがて京都の事件の捜査過程で、山本は大久保の指南により医師免許を不正に取得していたことが判明。さらに2人には紛れもない殺人の疑惑が浮上する。精神障害を患って家族に多大な介護負担を強いていた山本容疑者の父親を、母親を含む3人で共謀し、2011年に医療の知識を悪用して殺害したとして2021年5月に2人は殺人容疑で再逮捕、母親も逮捕された。そして2023年2月、父親殺害事件で京都地裁は山本に懲役13年、山本の母親に懲役11年を言い渡した(被告側はともに控訴)。
 裁判の過程で明かされた3人のメールの中には、大久保の「点滴にナトリウムをぶち込んだらいい。じわじわ死んでいく。もっと簡単な方法は無色透明な液体洗剤でも注入すること。俺老人は早く死んでほしいとマジで感じる。枯れ木に水の老人医療とはよく言ったものだ」という言葉が含まれている。電子書籍のタイトルとも重なり、高齢者を始末するべき「社会のお荷物」とみなしていたことがうかがわれる。死にたいと望むALSの女性を殺害した行為が、この考え方と無縁であったとは考え難いだろう。

†映画『PLAN75』の世界
 おりしも、この判決の前後に世間を騒がせていたのは、経済学者の成田悠輔による「高齢者は集団自決を」「安楽死の義務化も」などの発言だった。成田の発言は、22年に公開された映画『PLAN75』(主演:倍賞千恵子、脚本・監督:早川千絵、配給:ハピネットファントム・スタジオ、日本・フランス・フィリピン、カタール合作)とも不気味な符合を見せている。75歳以上の高齢者を対象に安楽死が制度化された日本の近未来。それとなく制度利用を促す仕掛けに満ちた社会で、貧困や社会的孤立から生きづらさを感じる高齢者たちが安楽死へと誘導されていく――。この映画と成田の言葉との符合はただの偶然ではなく、世の中の空気を示唆していると思えてならない。
 こうした出来事を眺めながら、ここ数年じわじわと社会の空気が変わってきたことを肌身に感じている。経済状況の悪化と格差の拡大、そこにコロナ禍による社会の閉塞感が重なる中、余裕をなくした社会の人々は社会的弱者への風当たりを強めていく。そんな中で「安楽死」という言葉が使われる文脈もあきらかに変わってきた。
 10年前、「安楽死」は、もう救命不能となった終末期の人が耐えがたい痛みに苦しんでいる場合の最後の救済策とイメージされていたが、上記の「安楽死」は、ことごとくそこからかけはなれている。相模原事件の植松の行為は残虐な殺人だし、橋田が書いたのは、命にかかわる病気があるわけではないが生きがいを見いだせない高齢者の自殺願望だった。新書の帯の「人に迷惑をかける前に」という言葉に、健康な多くの人たちが共感を寄せたが、「Nスぺ」が取り上げた難病女性や京都の事件で死を望んだALSの女性患者のように介護や支援サービスを使って生活する人たちに、それがどのようなメッセージとして届くかに想像力を働かせる人は少なかった。まして橋田も2人の女性も、死が差し迫った終末期の人ではなかった。さらに大久保や成田の発言が示唆するのは、「社会の負担になる人には安楽死で消えてもらおう」という考え。それを「自己決定の尊重」の装いで覆い隠して制度化したのが『PLAN75』の世界だ。

†素朴な善意から「安楽死が必要」と言う人たち
 もうひとつ、私が気になるのは、「安楽死」という言葉の広がりそのものが、もっと隠微な形で人々の素朴な善意にも影響を及ぼし始めているように思われることだ。先日、私の住む地方のローカルTVが夕方のニュースで、知的障害のある40代の娘を介護する70代の夫婦の老障介護生活を紹介した。親亡き後の受け皿整備の必要を訴える番組構成だったのだけれど、ネットの番組ページに寄せられたコメントを読んで暗澹とした気分になった。老いた身体で介護を担いつつ自分が亡き後の娘の居場所を探す親の姿に心を痛める人たちの中に、「だから日本でもやっぱり安楽死の合法化が必要」と書く人が、思いがけず高い頻度で混じっていた。社会的支援が必要だという番組の訴えに呼応して、善意からであれ、障害のある人自身を社会から消すという問題解決へと簡単に思考を転じる人がこんなにも多いことに、愕然とした。
 その人たちは、知的障害のある健康な人を、障害を理由に、本人の意思と無関係に、社会や家族の都合で合法的に「安楽死」させる制度を作ろうと、本気で言っているのだろうか。それは植松聖が考えたのと同じ「安楽死」であること、つまり障害を理由に社会の都合で人を殺そうという主張なのだということに、気づいているのだろうか。気づかないまま「安楽死」をこんなにも安直に「合法化しよう」と口にするナイーブな人たちが、いつのまにかこんなに増えているのだとしたら、それは恐ろしいことではないのか……。
 いや、けれど……。もしかしたら海外の安楽死の実態を紹介した10年も前の記事が今さら話題になるというのは、そんな今の社会の空気に危うさを嗅ぎ取っている人が少なくないということでもあるのではないか……。もし、そういう人がまだ沢山いるのであれば、それは日本が『PLAN75』のような世界へと滑り落ちてしまわないための、かすかな希望なのかもしれない。
 10年前、私は「シノドス」の記事を「安楽死について議論する前に、知るべきことがまだたくさんあるのではないか」と問いかけようと書いた。その記事に今この時に共感してくれる人たちがいるなら、私がその人たちに知ってほしいのは、安楽死を合法化した国々で10年前に起こっていたことだけではなく、その後の10年間で世界の安楽死の周辺ではさらに何が起こってきたか、そこにどんな危うさが見え隠れしているのか、ということだ。
 それを、この本で書こうと思う。

2 「安楽死」とは何か
 最初に、「安楽死」という文言と概念について整理しておきたい。すでに書いたように、巷に「安楽死」という言葉があふれてきた一方で、同じ「安楽死」という言葉が意味しているものが、使う人によってまったく異なっている場面が少なくない。SNS等で多くの人が安楽死とはなにかという共通の土台を欠いたチグハグなやり取りを続け、結果として「安楽死」という言葉だけがいたずらに拡散されるのは危険なことだ。
 そこで、まず文言と概念の整理をする必要があるのだけれど、とはいえ、すでに定まった国際的な定義があるというわけではない。専門家の間でも解説する人によって「安楽死」の定義は微妙に異なっていたりもする。ここではアカデミックな議論ではないので、安楽死について考えようとする人、SNSを含めてこの問題に関して何らかの意思表示をする人には、その前に最低限これだけは知っておいてほしいと思う範囲で、ごく基本的な整理をしたい。具体的には「尊厳死」「安楽死」「医師幇助自殺」という文言を中心にそれぞれの違いを説明し、本書の書き分け方を示す。「尊厳死」との違い 日本で最も頻繁に混同されているのは、日本で言うところの「尊厳死」と「安楽死」だろう。日本で言うところの「尊厳死」とは、一般的には終末期の人に、それをやらなければ死に至ることが予想される治療や措置を、そうと知ったうえで差し控える(開始しない)、あるいは中止することによって患者を死なせることを指す。たとえば人工呼吸器や胃瘻などの経管栄養また人工透析などの「差し控え(不開始)と中止」が議論となる。それに対して「安楽死」は、医師が薬物を注射して患者を死なせることをいう。
 同じ「死なせる」でも、両者の内実は異なっている。前者は、やらなければ死が予想される状態で治療しないことなので、「死ぬに任せる」という言い方をすることもある。後者では、医師が死なせる意図をもって薬物を注射するのだから、こちらは直接的に死に至る行為を医師が行って、つまりは「殺す」ことを意味する。
 このように医師が直接的に死を引き起こす行為をするかしないかの違いによって、前者を「消極的安楽死」、後者を「積極的安楽死」と分類することもある。その意味では、どちらも広義には「安楽死」であると考えることもできるし、孕んでいる問題には現に共通する部分もあるのだが、実態として前者つまり日本で言うところの「尊厳死」は、現在の終末期医療においてすでに選択肢のひとつとされ、日常的に行われている。一方、後者の「安楽死」は現在の日本では基本的に違法と考えられているので、混同しないように注意が必要だ。

†「積極的安楽死」と「医師幇助自殺」
 もうひとつ、日本ではほとんど区別されることなく「安楽死」と称されがちなのが「医師幇助自殺」だろう。かつては自殺目的で使用することを前提に医師が処方した薬物を患者自身が飲んで死ぬことを意味していたが、それでは障害のために嚥下能力が低下した人が死ぬことができないという声が上がり、最近は医師が入れた点滴のストッパーを患者が外す、より安楽死に近いやり方も行われている。ただし、患者自身の意思による「自殺」であることの証として、死を引き起こす最後の決定的な行為は患者自身によって行われなければならない。
 合法化が先行しているヨーロッパと米国の議論では「安楽死euthanasia」と「医師幇助自殺Physician-Assisted Suicide(PAS)」とが長く使い分けられていたが、2016年にカナダが両者を「医療的臨死介助Medical Assistance in Dying(MAID)」という文言で一括して合法化して以降、区別せずに議論する傾向が広まっている。それ以前から、合法化を推進する人たちはAid/Assistance in Dying(AID)、Voluntary Assisted Death/dying(VAD)、Physician-Assisted Death/Dying(PAD)など、「(自分の意思により)(医師の)介助を受けて死ぬこと」という捉え方で両者をくくる文言を好む傾向があったが、カナダの合法化以降、メディア等でもそれらが用いられることが多くなっている。
 こうした傾向に対して、いくつかの州が医師幇助自殺を合法化している米国では2018年に内科医学会の倫理法務委員会から、行為を正確に表現する文言は「医師幇助自殺Physician-Assisted Suicide(PAS)」であり、上記のAIDやPADなど、緩和ケアと混同される可能性のある文言を使うべきではないとの提言が出ている。このように、直接的に死を引き起こす決定的な行為を医師がするのか患者自身が行うかの違いを倫理的に重視する議論もある。
 また、「海外では合法化されているのだから日本でも安楽死の合法化を」と主張する人をよく見かけるが、医師幇助自殺のみを合法とし積極的安楽死はなお違法という国や州もあることは知っておきたい。例えば、前述の「Nスぺ」の難病女性の事例は、スイスの自殺幇助クリニックでの死だった。番組が一貫して「安楽死」と称したために「日本でも安楽死を合法に」との声が一気に広がったが、スイスで容認されているのは医師幇助自殺のみ。「海外の安楽死」としてよく引き合いに出されるスイスだが、かの地では積極的安楽死は今なお違法行為である。
 医師幇助自殺も広義には「安楽死」に含められるし、検討すべき倫理問題の多くが両者に共通するため、「安楽死」として両者が包括的に議論されることが多いが、この問題について考えようとする人は少なくとも両者の違いと、論点によっては区別して考える必要があることを知っておくべきだろう。
 先に「尊厳死」という文言に「日本でいうところの」と敢えて追記したのは、こうした海外の議論を踏まえると「尊厳死(dying/death with dignity)」という文言をめぐる状況が非常に複雑なためだ。
 米国では、医師幇助自殺を最初に合法化したオレゴン州などいくつかの州の法律の名称は「尊厳死法(the Death with Dignity Act)」であり、その意味では米国では「尊厳死」は医師幇助自殺を意味する。ところが、ややこしいことに、「尊厳死」の字面の意味は「尊厳のある死」にすぎないので、積極的安楽死または医師幇助自殺あるいは両方の合法化に向けて活動する人たちが、自分たちが合法化を目指しているものが「尊厳のある死に方をすること」だと強調するために「尊厳死」と表現することがある。この場合、それが指しているものが具体的に何なのかは、個別具体の文脈の中で判断する他はない。

†本書での文言の使い分け
 本書では「安楽死」と書く場合には広義に医師幇助自殺と積極的安楽死との両方を含め、特に両者の区別を意識する場合には「医師幇助自殺」と「積極的安楽死」を使い分ける。
 カナダの場合、MAIDという呼称に同国独自の安楽死に対する姿勢が反映されているので、その特異性を意識する文脈ではMAIDを用いるが、実際に行われることが他国と違うわけではないので、一般的に言う場合には他国と同様に「安楽死」とする。
 上記のAID、VAD、PADなどの曖昧な文言は、誰かの言葉を引用する場合に限定する。
 また本書で「尊厳死」と書く場合は、特に追記はなくとも、これ以降は日本で言うところの「尊厳死(消極的安楽死/治療の不開始と中止)」の意味とする。
 上の文言と概念の整理の他に、本書の前提をいくつか確認しておきたい。
 まず、本書での安楽死をめぐる議論は、安楽死そのものの道徳的是非を云々するものではなく、現在一部の国や地域で行われている、合法的な行為として社会的に制度化された安楽死、またはそのように安楽死を社会的に制度化することをめぐる議論であるということ。
 もうひとつは、それら制度化されている「安楽死」には、いくつか共通した前提があるということだ。まず意思決定能力のある人本人の自由な意思決定によるとの原則があること。次に所定の手続きを踏み、所定の基準を満たしたとして承認された人だけに行われること。そして、所定の手順に沿って医療職から提供される手段によること。たとえば、前述のように「障害のある人が家族や社会の負担になっているから日本でも安楽死制度が必要」などと安直なものの言い方をする人が増えているようだけれど、家族や社会の負担になることを理由に、障害の有無や程度を基準にして人を選別し、本人以外の意思によって積極的安楽死で合法的に人を殺害することを認める制度は現在、地球上のどこにも存在しない。人類史上、そうした制度を作って合法的に多くの障害者を殺害したのはナチスのみである。
 もちろん、これら3つの前提があることは、それらが現実に担保されていることを保障するものではない。ひとつひとつの前提をめぐって、様々な問題が指摘されてきているのも事実だ。安楽死合法化の世界的な拡がりとともに、それらの前提がなし崩しとなり、安楽死のありようがじりじりと社会のための命の選別と切り捨てへと変質し始めているのではないか――。そんな懸念が拡がっている。本書も、安楽死が合法化されている国々で実際に起こっている出来事に即して、その懸念を考えてみようとするものである。

【目次より】

  序 章 「安楽死」について

第一部 安楽死が合法化された国で起こっていること
  第一章 安楽死「先進国」の実状
  第二章 気がかりな「すべり坂」――線引きは動く

第二部 「無益な治療」論により起こっていること
  第三章 「無益な治療」論
  第四章 コロナ禍で拡散した「無益な患者」論

第三部 苦しみ揺らぐ人と家族に医療が寄り添うということ
  第五章 重い障害のある人の親の体験から医療職との「溝」を考える
  第六章 安楽死の議論における家族を考える

  終 章 「大きな絵」を見据えつつ「小さな物語」を分かち合う
 

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